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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第91回

ニッケイ新聞 2013年6月8日

 いつものように唇を腹部から下腹部に這わせていった。美子はため息とも喘ぎともとれる声を漏らしながら、児玉の愛撫を受け止めていた。
「顔を見せて」
 美子が言った。児玉は美子の中に入り、突き上げるように腰を何度も上下させた。酒のせいか、あるいはいつも射精をコントロールされてきたせいなのか、果てそうにもなかった。壊れた機械のように児玉は無言で同じ動作を繰り返した。
 いつもなら美子が言うはずだ。「児玉君、寝て」と。しかし、その夜、美子は何も言わずに、児玉の動きに合わせて、肺の空気をすべて吐き出すかのような深い吐息を何度も漏らした。
 ようやく児玉が絶頂を迎えると、反射的に美子から体を離して、それまでのように腹部に白濁した体液を吐き出した。
 その瞬間、美子は児玉を見上げながら悲しそうな目をした。児玉はその視線に耐えきれず美子に覆い被さるようにして体を重ねた。美子の目から涙がこぼれ落ちた。何故泣いているのか、児玉にはまったく理解できなかった。理由も知りたくなかった。
「今日は一度も愛しているって、言ってくれなかったね」
 何を勝手なことを言っているのかと児玉は思った。いつもの美子と明らかに違っていた。民族だの、血の純血などと児玉を挑発するように食ってかかってくることもなかった。しかし、児玉は美子の気まぐれでしかないと思った。
「もう私のこと、愛していないんだ」
 美子の言葉に児玉は次第に怒りを覚えた。
「ついこの間、俺に言った言葉をまさか忘れたわけではないだろう」
 愛なんて煩わしい。分身はいらないと激しく拒絶したのは美子自身ではないか。
 児玉は美子から離れ、天井を見つめた。美子も天井を見つめながら児玉に聞いた。
「私のことなんかどうでもいいんだ」
「日本人とは運命をともにできないと拒絶したのは君だ。それを忘れないでくれ」
「私を愛しているのかどうかだけを知りたいの」
「今でも愛しているさ。でも、俺はブラジルに行く。付いてきてくれないのなら別れるしかない」
「今、愛しているって言ってくれたよね」
 美子はうつ伏せになりベッドの下から小さな瓶を取り出した。体を起こして、小瓶の蓋を開けた。中には真っ白な錠剤が入っていた。美子は一ヶ所だけシミのように濡れたシーツの上に錠剤をすべてぶちまけた。
「一緒に飲んでくれる……」
 美子の目は斜めに剃刀で切ったように吊り上がっていた。児玉は背筋をナイフで撫でられているような気分だった。錠剤がどんな薬なのかおよそ見当がついた。
「死にたければ勝手に死ぬがいいさ」
 シーツの上に散乱した錠剤を一ヶ所にまとめて、美子の方に押しやった。帰り支度を始めた児玉を美子は怒りに満ちた目で見ていた。
「愛するというのは、希望に満ちた未来を共有し、一緒に生きていくことだと思っている。それがどんなに厳しい道でも」
 児玉は寝室を出て、階段を降りた。玄関に腰を降ろして、靴を履いた。寝室のドアが開く音が聞こえた。
 玄関のドアノブを握り、ドアを押した。背後から美子の声がした。
「韓文研で言われたんだ。美子ってかわいそうだねって」
 鼻水をすすりながら話しかけているような嗚咽まじりの声だった。児玉は振り返ろうとはしなかった。
「帰化しているって同情されたんだよ」
 話があるといったのは、そのことらしい。
 韓文研は韓国籍の在日が多く集まるサークルで、早稲田大学内には朝鮮籍の学生のサークルもあった。彼らの活動は政治的な色彩を帯びていた。韓文研も朴正熙政権の打倒と民主化を訴えていた。


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