ニッケイ新聞 2013年6月22日
105周年を迎えた日本移民史の中で、〃最初〃という枕詞をつけてひたすら繰り返された「笠戸丸」、その船を運行した皇国植民会社の水野龍の存在には突出したものがある。だが同じ時期に「日本人植民地」創設を実現させた青柳郁太郎(1867—1943、千葉県)の存在はあまり目立たない。1913年に創設した桂植民地を皮切りに、第二にレジストロ、第三にセッチ・バーラスと拡張し、「イグアッペ植民地」と総称した。なぜ青柳は移民でなく「植民」にこだわったのか、そしてなぜイグアッペを選んだのか。時まさに日露戦争の前後、明治時代後期は日本近代史の分かれ目だった。青柳を表看板にすえて南米への移住計画を推進したのは誰で、どんな考え方だったのか。レジストロ地方入植百周年を機に、この地方に限らない幅広い歴史的な視点から、今だから見える日本移植民の原点を探った。
「これだ、これだ! ここから日本移植民史が始まったんだ」。まるでき場所に困って仕方なく据えつけられたかのようなその青銅の金属板を見て、記者は確信した。サンパウロ市から南西に202キロ、イグアッペ市立歴史博物館の2階奥の床スレスレの壁面に金属板は設置され、手書きで簡単な説明が書かれていた。
歴史遺産に指定されるほど古いノッサ・セニョーラ・ダス・ネーベス教会前の広場の一角にその博物館はあった。3月13日朝8時、道案内をしてくれたレジストロ百年史編纂委員長の福澤一興さん(72、埼玉)の機転で早めに到着し、立ち寄った。でも正規の開館時間は午前9時であり、案の定、扉は閉まっていた。9時以降には別の取材を入れており、自らの段取りの悪さを呪い、がっかりした。
その時、教会の方から歩いてくる中年婦人がおり、「中を見たいの?」と尋ねてきたので事情を説明した。すると偶然にも彼女が博物館の解説員で特別に入れてくれた。記者は駆け上がるように2階に上がり、床に寝転がって写真を撮りながら「青柳郁太郎はこれを見てどんな表情を浮かべたのか」と一世紀前の出来事に想いを馳せた。
金属板の日付は1911年4月29日。イタリア統合50周年を記念してトリノで開催された第1回国際産業展覧会で、「世界優良の米生産者」として、国際顕彰を受けた時に授与されたもの。浮き彫りでイタリア語(Diploma d’Onore, Torino MCMXI)が刻まれている。イグアッペ市にとってはもちろん、日本移民史上にも残る日付だ。福澤さんも「青柳はこの賞を知っていたに違いありません」。と何度も頷いた。
稲作と日本人の関係は宿命的なまでに深い——。聖南部の辺鄙な川沿いの土地が、日本人最初の植民地に選ばれたのは、おそらく「世界一の米処」だったからだ。
ここに広大な土地を取得し、「青柳が目論んだブラジルに新しい日本村を造ると云う遠大な計画」(『レジストロ植民地の六十年』同刊行委員会、1978年、10頁、以下『六十年』と略)は、この表彰を知った瞬間に具体化したのではないか。(つづく、深沢正雪記者、本連載はすべて敬称略)