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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第101回

ニッケイ新聞 2013年6月22日

 朴仁貞は以前暮らしていた恩田町の知人を時折訪ねていた。そこの朝鮮人部落から帰還した在日も少なくはなかった。
 大学から戻ると部屋の灯りもつけずに、朴仁貞がダイニングキッチンのテーブルに腰かけたまま物思いに沈んでいた。いつもなら「お帰り」と声をかけてくるがそれもなかった。
「どうしたの? オモニ(母さん)、体の具合でも悪いの」
 幸代は部屋の灯りをつけながら聞いた。
「恩田町の朴さん一家、覚えているだろう」
 朝鮮人部落の中でもひときわ貧しさが際立っていた。子供が確か四人いたが、一人は栄養失調同然で二、三歳の頃に死んでいた。
 その日の食べるものがなくて、部落中を回り食事を分けてもらっていた一家だ。共和国への帰還事業が始まると真っ先に帰国していった。
「朴さん一家がどうしたというの?」
「家族全員が亡くなったらしいよ」
 共和国への短期訪問が可能になったその年の暮からそうした話が徐々にだが、在日の間に流布していた。一時帰国で共和国を訪れた人たちの情報だから、総連が躍起になって打ち消そうとしても、噂は広がる一方だ。
 朴仁貞は何も言わないが、共和国を訪問し、家族の安否を確かめたがっているのは明らかだ。しかし、共和国への里帰りなど幸代にとっては夢のまた夢でしかなかった。短期帰国訪問団の定員は百五十人ほどらしいが、その数倍の希望者が殺到し、万景峰号の他に三池渕号という大型客船まで運航するようになった。
 帰還はわずか二週間、団員に選ばれるためには二、三百万円の寄付を総連にしなければならなかった。そんな大金は幸代に用意できるはずもなかった。訪問団はほぼ毎月のように共和国を訪れるようになった。
 伝えられた帰還家族の情報は極貧に喘ぎ、物資と現金を待ち望んでいるというものがほとんどだった。
 金一家の情報も次第に具体的になっていった。朴仁貞は恩田町を出て、横浜市内で焼肉店を営む知人や恩田町の隣の町田市でパチンコ店を経営する知人らを訪ね回った。
 兄の容福は東大の医学部を中退し、姉の文子も神奈川県下有数の県立高校に進学していた。漠然とだが、平壌周辺で暮らしていると思い、容福は医師になっていると信じて疑わなかった。
 母親が最初に聞いたのは金寿吉一家が住んでいる場所についての情報だった。黄海南道の信川と言った者もいれば、黄海北道の沙里院と言った知人もいる。確かな情報が短期訪問した在日から得られたわけではない。訪問団は指導員と呼ばれる「監視員」のもとで家族と再会し、自由に話せるような雰囲気ではないらしい。
「容福は医者ではなく農業をやっているという話だよ」
 幸代にもそれは意外だった。父親は頑健な肉体を誇っていた。しかし、容福にしても姉の文子にしても学究肌で農業に向いているとは思えない。
「兄さんは共和国で医師として活躍し、祖国の建設に貢献したいと言って帰国したのに、農業なんかやるはずがないでしょう」
 幸代は母親が聞いてきた情報をそのまま信じる気にはなれなかった。
「そうならいいんだけどさ……」
 母親も不安を払拭しきれない様子だ。母親はその後も知り合いを訪ね回り、最後には自分も短期訪問すると言い出した。神奈川県の総連に行き、短期訪問の説明書をもらってきてため息をつきながら、幸代に二百万円を用意してほしいと頼んできたのだ。
「無理を承知の上で頼んでいるのさ。一生のお願いだからどこからか二百万円を借りてきてくれないか」
 すでに早稲田大学文学部の講師として働き、有名進学予備校の講師も兼ねていた。それなりの収入は確保していたが、いきなり二百万円といわれてもすぐに用意できる金額ではなかった。母親の訴えを無視するつもりはなかったが、幸代は聞き流していた。


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