ニッケイ新聞 2013年6月25日
《リベイラ渓谷はブラジルのナイル河と言われているが、一九五三年八月十八、九両日、レジストロ入植四十周年記念祭が挙行された。日本人移住者が、ブラジルのナイル河流域の選民として、開拓四十年という輝かしい歴史を作るに至つたのである》『在外日本人先駆者伝』パ紙、55年、6頁、以下『先駆者伝』)。
つまり、ピラミッドなどで有名な文明発祥の地のエジプト、それがナイル河沿いに生まれたことになぞらえ、最初の植民地であるレジストロを日系文化誕生の地として位置づけ、〃ブラジルのナイル河選民〃と表現している訳だ。当時込められていた期待の大きさと気概の強さが伺われる。
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戦後「お茶の都」ともてはやされた水郷レジストロは、サンパウロ市から国道BR116号を南西方向に185キロ進んだ地点にある。パラナ州都クリチーバとのほぼ中間地点に位置し、総延長470キロものリベイラ河(Rio Ribeira de Iguape)の最下流の町で海外興業株式会社が植民地を拓いた。
レジストロは海岸山脈と大西洋にはさまれ、海抜10メートル以下の地域が多くて年中湿度が高く、バナナが似合う亜熱帯の町だ。近くのジュキア線に沖縄県系人が多いのは「母県に気候が似ているから」といわれる。
今年は日本移民初の植民地「桂」(1913年入植)から百周年であり、レジストロ(1914年)、セッチ・バーラス(1920年)の順に拓かれ、当時はこの三つを「イグアッペ植民地」と総称した。海興が本部を置いたレジストロを中心に地域は発展し、上流へ向かって拡大した。
レジストロから見るとイグアッペ市はさらに河口に直線距離で40キロ下った地点で、桂はそのほぼ中間地点にある。逆に三番目のセッチ・バーラスはレジストロより20キロほど川上だ。セッチ・バーラスより山間部へ20キロほど奥まったところにはキロンボも拓かれた。
青柳郁太郎は笠戸丸移民の4年後、1912年3月にサンパウロ州政府と5万ヘクタールの無償譲渡を含む植民地設立契約を結んだ。彼が代表だった「東京シンジケート」は、いわば仮の組織で、翌1913年3月10日の創立総会で本格的な「伯剌西爾拓植株式会社」に組織替えをし、さらに1919年からは「海外興業株式会社」(以下、海興)に合併された。太平洋戦争開戦にともない、1942年の資産凍結令によって清算されるまで、海興が植民地開設・運営事業を進めた。
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今でこそサンパウロ市から国道116号を通って車で3時間余りで着くレジストロだが、戦前は3日がかりだった。だから百年前、桂植民地への入植者はサントス港から船でイグアッペ港へ向かい、河蒸気船に乗り換えてリベイラ河を遡った。
1914年にジュキア鉄道が開通してからも、サンパウロ市からサントスまで鉄道、サントスからジュキア駅までジュキア線、そこで河蒸気に乗り換えてレジストロまで4、5時間という実に不便な土地だった。桂ならレジストロで別の河蒸気に乗り換え、さらに一日だ。
陸路はレジストロからセッチ・バーラス、キロンボを通過して海岸山脈を超えてピエダーデに抜ける馬やロバしか通れない山道しかなかった。そこが1938年に車が通れる州道になり、サンパウロ市まで7時間余りで行けるようになった。さらに1961年に現在の国道116号が開通してようやく便利になった。
百年前は、サンパウロ州奥地に向けてモジアナ線、ソロカバナ線、ノロエステ線などが続々と延びている時期だった。なぜ青柳はそんな不便な場所を敢えて選んだのか——。日本移民はそこを切り開き、戦前は米、サトウキビ、養蚕、バナナ、コーヒーなどが色々と試され、戦後はついに〃お茶王国〃が誕生した。だが、そこに至る道のりは平坦なものではなかった。(つづく、深沢正雪記者)