ニッケイ新聞 2013年6月26日
青柳郁太郎とはどんな素性の人物なのか——。
《ブラジルに対する集団移民の端緒は、笠戸丸を率いた、水野龍氏によって開かれたが、植民の端緒は青柳郁太郎氏によって、口火が切られた》と移民50周年祭委員会が編纂した『物故先駆者列伝(日系コロニアの礎石として忘れ得ぬ人びと)』(1958年、以下『列伝』)には並び評されている。
だが、その〃植民の祖〃について当地で発行されたものを調べてみると、ほとんどが東京シンジケート以降についてで、学歴や職歴などそれ以前の経歴がほぼ記されていない。いわば〃謎の人物〃だと分かった。
『研究レポートⅣ』(人文研、1969、以下『Ⅳ』)に鈴木南樹が書いた「日本人のペルー移住」の49〜51頁部分には、わずかに貴重な個人情報として《青柳は千葉県の富豪の子息で、長身美貌の貴公子然とした人》と書かれている。しかも、元々はペルー移住を進めていたとの意外な内容だ。
鈴木南樹が青柳から聞いた話が『Ⅳ』に次のように要約されている。《青柳がカリフォルニア大学に在学中、米国の発展した経路などを歴史で学んでいく内に、日本のような土地の狭い人口過剰な国はどうしても海外に新天地を求むるより外ない、それには未だ政治的に確固たる根を下ろしていない南米がよいと云う様な漠然とした考えから、ペルーは北米から近くもあり、唯一の条約国なので視察旅行をした訳である》(50頁)。
そこで「近代デジタルライブラリー」サイトを探すと、青柳は1894(明治27)年10月に『秘魯事情』という本まで出版していることが分かった。ペルー行きのきっかけに冒頭で触れており、北米に遊学中、1887(明治20)年頃にたまたま、カリフォルニア大学付属の図書館において在外米国領事の報告書を見て、南米大陸の有望さに気付いたとある。米国領事の報告書との出会いが彼の人生を変えた。
そこで、またひっかかる点があった。『物故者列伝』(日本移民五十年祭委員会編、1958年、5頁)には《慶応三年六月、千葉県にうまれた〜》とある。慶応3年は1867年だから、米国留学した上、わずか20歳にして北米の図書館でそのような資料を漁っていたことになる。
青柳は当時としてはかなりのエリートであったのだろうが、その年齢で国家の将来を憂い、その時点では誰も手をつけていない南米への移植民政策に焦点を絞るとは、相当早熟な人物だったに違いない。それにしても、あまりに若すぎる感も拭えない。
念のために『物故者列伝』を確認すると、不思議なことに気がついた。《慶応三年六月》のすぐ前に《昭和十八年二月十六日、東京大森の自宅で、八十四才の天寿を全うして他界した》とあるが、実は計算が合わない。
慶応3年は1867年だから享年76のはずだ。享年を間違えることはあまりないだろうから逆算してみると、1944年の誕生日前に亡くなった者の享年が84だったということは、1859(安政6)年生まれのはず。
であれば坂本龍馬の23歳下、水野龍、山縣勇三郎と同い年だ。まさにブラジル移民事業創始世代にふさわしい。ならば件の図書館の時には28歳だったはずであり、納得できる年齢だ。(つづく、深沢正雪記者)