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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第65回

ニッケイ新聞 2013年5月1日

 それは意識して事実を隠そうとするのとは違っていた。出身地を聞かれることに、未だ癒されない古傷に塩を擦り込まれるような傷みを覚えた。
 叫子は小宮の言葉など耳に入っていないのか自分のことを語った。
「真剣に考えた末に移住を選択したわけではなかったの。もうどうでもいいというか、半ば諦めていた」
「諦めていたって、何を」
「私の人生を」
「肌は黒いし、家族もいない。将来、私を好きになってくれる男性なんて現われるとも思えなかった。どうでもいいやと思ってブラジルにきたというわけよ」
「日本ではそんなにひどい目にあってきたんですか」
「もう思い出したくもないわ。でも、今は違うの。この国で生きてやろうと思っている」
「そうだよ、生き抜かないと」
「生きるよ、この国なら生きていけそうな気がするの」
「叫子さんもそう思いますか」
 二人の話ははずんだ。一時間以上も寿司安にはいただろうか。
「私、小宮さんともっとお話したいけど、これから家に帰って出勤の準備をしなくちゃ」
「叫子さんの仕事って」
「これから仕事といえばホステスしかないでしょう」
「どこの店で働いているの」
「トーマス・デ・リマ街にあるトパーズっていうお店にいるわ。よかったら一度、きてくれる」
「近いうちに必ず行きます」
「ほんとう、うれしいわ。私、待っていますからね」
 叫子は地下鉄に乗るためにリベルダーデ駅の方へ歩いていった。東洋人街の雑踏に消えるその後ろ姿を、小宮は見送った。
 トパーズは寿司安から歩いて十分もかからないところにあった。その店に入ったことはないが、車で何度も通り掛かった。時計を見た。まだ九時を回ったばかりだ。店に入って酒を飲むつもりはなかったが、トパーズをのぞいて家に戻ることにした。
 トパーズは開店準備中だった。ドアを開いたままボーイが店内の清掃に追われていた。小宮が中に入ろうとすると、二世のボーイが作業の手を休めながら言った。
「女の子が来るのは十時過ぎだよ、セニョール」
「また来るよ」
 十数人でいっぱいになりそうな小さな店だった。家からもそう遠くはない。歩いて帰宅できる距離でもあった。
 小宮がトパーズを訪れたのは、叫子と食事をしてから数日後のことだった。夜十一時を回った頃、小宮は歩いてトパーズに向かった。明日の仕事は小宮がいなくても他のスタッフで十分に対応ができる。午前中は休むかもしれないと竹沢所長には伝えた。ブラジルのバーは夜十二時頃から始まり、午前五時頃までは営業している。
 小宮の心はいつになくはなやいでいた。ブラジルの土を踏んで以来、仕事のことばかり考えてきた。叫子が小宮の心にすっぽりと空いている空洞を埋めてくれるような気がした。
 トパーズに着くと入口の前にはこの間のボーイが煙草を吸いながら立っていた。小宮の顔を見るとドアを開けた。中に入ると同時にホステスが一斉に小宮の方を見た。テーブル席に二、三人の客が着き、その横にホステスが寄り添っていた。まだ客の着いていないホステスはカウンター席に座り話し込んでいた。
 小宮は薄暗い店内を見ました。カウンターの奥の方から聞き慣れた声が響いてきた。
「小宮さん、本当に来てくれたんですか」
 叫子がカウンターから走ってきた。
「先日はご馳走様でした。さあ、どうぞ」
 小宮はソファに座った。叫子は「隣に座らせて」と小声でいうと、小宮に体をあずけるようにして座った。


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