ニッケイ新聞 2013年5月7日
「わかった、と言ってもそんなに大したものは作れないからあまり期待しないでね。作っている間にシャワーでも浴びてきたら」
「そうさせてもらう」
小宮はバスルームに入って熱いシャワーを浴びた。タバコの煙が染み込んだ髪をシャンプーで洗い流し、あぶらぎった顔を何度も洗った。心地好い疲労感が体全体に広がるのを感じる。しばらくシャワーに打たれたままだった。
小宮はバスローブをはおり、バスタオルで髪を拭きながらバスルームを出た。
「小宮さん、できたよ」叫子の声がした。
寝室に入り真新しいバスタオルとTシャツとジョギング用のトランクスを取り出してきた。
「叫子さんもシャワーをあびてきたらいいよ。よかったらこれを使って」
「えっ」
叫子は一瞬驚いたようすだったが、「お借りします」といってバスルームに入った。リビングにはコーヒーの香りが立ち込めていた。テーブルにはスクランブルエッグ、野菜サラダ、熱いコーヒーとレイチ、それにさっき買ったオレンジを搾って作ったフレッシュジュースが並べられていた。ソファに座ってテレビスイッチを入れた。ニュースが流れていた。キャスターの話す流暢なポルトガル語を理解できるわけではないが、聞くことに集中していると聞き取れる単語はある。
「ああ、気持ちよかった」
間もなく叫子がバスルームから出てきた。
「さあ、食べよう」
「待っていてくれたの、ありがとう」
叫子はTシャツが大きすぎたのか、トランクスをはいていないように見える。小宮は思わず叫子の浅黒いしなやかな足に視線をやった。
「小宮さん、何を見ているのよ」からかうように叫子が言った。
「いや、あまりきれいな足をしているから」小宮は思わず本音を言った。
「ありがとう。お世辞でもうれしいわ。さあ、さめないうちにいただきましょう。小宮さんはコーヒー、それとも」
「カフェコンレイチ(ミルクコーヒー)」
「私もカフェコンレイチ、朝はこれが一番よね」
叫子はテーブルに乗り出すようにして慣れた手つきでカップにコーヒーとレイチを注いだ。その拍子に叫子の胸の膨らみがTシャツに浮き上がった。
小宮は彼女の胸に向けた視線を悟られまいとしてサラダボールから野菜サラダを小皿に取った。トマト、レタス、それにパウミットが入っていた。パウミットは椰子の木の芯で、小宮の好物だった。パウミットの瓶詰はいつも冷蔵庫の中に入れておいた。それを使って叫子がサラダを作ってくれた。
「おいしいね、このサラダ」
「よかったわ。気に入ってくれて」
ドレッシングが口に合った。
「どうやって作ったの、このドレッシングは」
「少しの醤油と、オリーブオイルにピメンタ、レモンガレーゴの汁で作るのよ」
小宮にとっては久し振りにくつろいだ時間だった。朝食はいつも一人で慌ただしく取っていた。昼食、夕食はほとんど外食で、特に夕食は仕事絡みの接待が多かった。ブラジル人との食事は落ち着いて楽しんでいるというわけにはいかなかった。
しかし、叫子との食事は心が沸き立った。二人ともフェイラを歩いたせいか、ほとんどをたいらげてしまった。
「こんなにおいしい朝食はブラジルにきて初めてだよ」
「それ、ほんとう」
叫子がテーブルを立ちながら聞き返した。彼女は冷蔵庫からイチゴを取り出してきた。
「ソブリメーザ(デザート)よ」
二人はソファに座りつめたく冷えたイチゴを口に運んだ。急に眠気が襲ってきた。夕べ一睡もしていないことに二人は気づいた。
「眠くなってきたなあ」小宮が言った。
「私もそろそろ失礼します」
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