ニッケイ新聞 2013年5月15日
それ以前、明治維新以来、為政者たちは新日本の建設を目指し、国家機構の構築と国民意識の涵養に力を注いでいた。そのため為された諸改革の内、ここで特に注目したいのが、1885(明18)年の内閣制度創設の折、初代文相となった森有礼が敷いた国家主義的な教育制度、その4年後に公布された天皇を神格化して国家の頂点に戴いた大日本帝国憲法──の二つである。
古来の天皇制と外来の国家主義を組み合わせた日本独特のナショナリズムが創造された。
日清・日露の戦(いくさ)での赫々たる勝利が、これを急速に成長させた。
戦前ブラジルへ渡った日本移民は、そういう時代に育った世代である。無論、為政者の意図を咀嚼していたわけではない。教育制度の改革内容も知らなかったであろうし、憲法の条文を読んだこともなかったであろう。ごく自然に、素朴に、天子様を崇拝、大日本帝国を誇り、日本人としての自信を強めていただけのことである。
彼らは、その気分を、遠いブラジルに渡っても、幾歳月が過ぎても、忘れることはなかった。(無論、そうではない人々も居たが、ごく微小な比率であった)
祖国日本は躍進していた。明治末には朝鮮を併合、大正に入ると第一次世界大戦に参戦、大陸や西太平洋上に版図を広げた。
ただ、この段階では、ブラジルの移民は、それを遠くから眺めて、素朴に喜び興奮していたに過ぎない。それ以上の関係はなかった。
以下、記事の一部要旨は、拙著『百年の水流』と重なる。
1924(大13)年、邦人の歴史は、新時代に入った。日本政府がブラジルに対する移民事業を国策化したのである。
これに先立ち、同年、米国は日本移民の受入れを事実上、禁止した。一方、日本では大不況が発生、小作争議、労働争議が続発していた。
対策として、政府は、米国に代わる大口移住先国として、ブラジルを選んだのである。国内に充満する鬱屈感を、外に発散させる風穴を開けるためであった。ブラジル移住を奨励、渡航費を全額支給した。(後に、支度金まで出すようになる)
移民は急増、1927年には1万人を越した。それ以前は、年間で数百人から数千人であった。1932年は1万5千、ブラジルに入国する外国移民中、最多となった。1933年には2万4千を数え、過半を占めた。
日本政府は、既移住者も支援した。産業組合(農協)の設立を奨励、資金を援助した。困窮していた一部のカフェー生産者のために、低利長期の融資をした。
国策機関として設立した海外移住組合連合会に資金援助をし、サンパウロ、パラナ両州に大型の入植地を造成させた。それ以前、移民が自力で造ったそれは、自然発生的で小規模なものが多かった。が、計画的で大規模な入植地を造成させた。こうした入植地は、それまでは「植民地」と呼ばれていたが、これを「移住地」と改めた。(植民地という言葉には属国領土という意味があるため、不適当という理由による。ただし、以後も植民地と称したケースもある)
ここに、日本からの新移民だけでなく、既移住者も受け入れた。
同時期、日本の実業家や拓殖事業家たちも、南伯あるいはアマゾンで、広大な土地を入手して、大農場や入植地を造り、関連事業を起した。政府が、それを要請したり応援したりしていた。
1933(昭8)年、邦人社会は笠戸丸から25年目を迎え、幾つかの記念事業を実施した。最大のそれが、日本病院の建設であった。これには、皇室始め日本の官民が、こぞって資金協力をした。
かくして、日本の朝野を網羅した対ブラジル戦略が展開される中、邦人社会は興隆期に入った。笠戸丸以来の歴史の水流の中に、巨大な波頭が隆起していた。
その頃、日本は満州事変を起し、満州国を建設、日支事変が始まれば、連戦連勝という勢いであった。国内では、ナショナリズムの熱度が急上昇、それが発する熱風が、遠く地球の反対側の邦人社会にも、吹き込み始めた。(つづく)