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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第75回

ニッケイ新聞 2013年5月16日

 マリーナも現在の日本の様子を日本語で質問してきた。
「広島までバスで何時間くらいかかりますか」
「天草はきれいな島ですか」
 マリーナの関心は東京よりも祖父の故郷広島、祖母の生まれた天草にあった。児玉は広島には二度ほど訪れたことはあったが、天草どころか九州にさえ行ったことはなかった。サンパウロ州の面積は日本の本州よりもやや広い。そのサンパウロ州を生きる糧を求めて、ほとんどの移民が各地を移動した。東京から広島や九州への移動などは、彼らにとっては大した距離ではないのだろう。
 原爆を投下された広島が、戦後復興し、近代的な都市として成長を遂げてきたさまを説明した。こんなときのマリーナは子供のような好奇心に満ちた目をした。
「日本はバスよりも鉄道の方が発達していて、広島までは新幹線で五時間くらいかかるんだ」
「シンカンセンが広島まで行くのですか」
「そう。以前は大阪までだったけど、現在は福岡県の博多まで開通しているんだ」
「児玉さんは九州に行ったことはないのですか」
「うん、ないよ」
「バッチャンが生まれたのは天草下島の姫戸で、目の前がきれいな海だったそうです」
「お祖母さんは日本に里帰りしたことはあるの?」
「ノン、お祖父さんが一度だけ。でもそれは私が生まれる前のこと」
 戦前の移民が日本の土を踏むことなどほとんどなかった。マリーナの祖父が日本に一時帰国できたということは、経済的に成功した時期があったことを意味している。
「広島と天草を旅行するのが私の夢です」
 祖父母の故郷の話をするマリーナの目は生き生きとしていた。二人のポルトガル語、日本語会話の相互レッスンはこんな具合に始まった。
 ソロバン学校の授業はポルトガル語の文法を正確に学ぶためには意義があったが、会話となるとやはりマリーナの方が実践的で役立った。マリーナの会話には下品な俗語が入ることもなかったし、雑談をすることで児玉の会話力は自然に上がっていった。
 土曜日の午後はいつもドゴンで待ち合わせた。コーヒーを飲みながら二時間ほど会話をして別れた。それまでは土曜日は目を覚ますと、児玉はテレーザの家に向かった。彼女のアパートで一晩過ごしてから日曜日の夕方に帰宅していた。そんな生活が次第に変わっていった。
 土曜日、ドゴンで会話をした後、二人は映画館に足を運んだ。シネ・ニテロイとシネ・ジョイアの日本映画の専門映画館があった。日本ではおよそ鑑賞することができない古い映画をポルトガル語の字幕スーパー入りで上映していた。この字幕を何度も繰り返して見ていると、ポルトガル語会話にも役立った。
 サンパウロに来て以来、取材で訪れた以外に市内で知っている場所といえばボアッチの密集している地域しか知らなかった。マリーナはそんな児玉を公園や美術館に誘った。サンパウロ市内には、日本の進出企業がオフィスを構えるパウリスタ通りからワンブロック中に入ると、コロニア風の大邸宅がいたるところに残っていた。
 街路樹で遮られた歩道を歩き、疲れたらバールに入って冷たいビールを飲む。そんなことをしていると一日があっという間に過ぎていった。
 イピラプエラ公園はリベルダーデ広場からバスで十数分のところにある広大な敷地面積を持つ公園だ。砂漠の中に建設された首都ブラジリアを設計した建築家がデザインした公園で、園内は芝生でおおわれ、人口の池が造られ、ローラースケートやラジコン機を飛ばせるスペースなどが設けられていた。
 緑の芝生の上で、寝転びながら恋人同士がキスをしている光景がいたるところで見られた。ブラジルに来てからはバスの中でも、地下鉄の中でもよく見かける光景なので、児玉も慣れて視線が行ってしまうということはなかった。


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