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ブラジル文学に登場する日系人像を探る 7…東洋街生まれの「フジエ」…中田 みちよ=第2回=映画館で「日本」を満喫

ニッケイ新聞 2013年5月22日

 「トシタロウは俺より5歳年長で、柔道ではずいぶん目をかけてくれた。黒帯の三段なのに、俺をいつも勝たせてくれる。チャンスをくれる。トシは畳の上でも畳の外でも偉大ですばらしかった。それまでに習った三人の師範よりも、トシから学ぶことのほうが多かった。これはたぶん、生まれながらの癖なのだが、俺は父親にしか胸襟をひらけない。嫌なことがあるとふくれ、子どものように泣いて閉じこもってしまうタチだった。思い出すのは、トシと同じ日系の娘が、すれ違いざまに会釈したことだ。かれらはなんと博愛主義であることよ。「見たか? まるでりんごのようなほっぺただ」トシは腹を抱えて笑った。「もう、りんごは味見したのか?」意味深長なその言葉に俺も笑った。俺には父親以外にも胸襟を開ける人間ができたのだった。
 他愛のない話、なぜトシタロウなのだろうとひっかかりました。このトシタロウという命名。偶然ではないようです。細川周平による『シネマ屋、ブラジルを行く』という著書があり、日系社会の活動写真について実に詳しく調べているんですが、当時はミフネ・トシロウがはやって、地方都市ではトシロウが日本人の代名詞として使用されたといいます。今ならさしずめワタナベ・ケンあたりでしょうか。
 現代60代前後の主婦たちはトシロウと日本映画(代表が『七人の侍』と『用心棒』)に夢中になっていたという記述があります。トシタロウは作者ジョアン・アントニオの創作ですが、これは絶対トシロウをもじっている…と妙に確信をもちました。私も下手の横好きでものを書くので何となくわかるんです。
 そして、私も実は日本人会館の巡回シネマで七人の侍や用心棒に熱をあげた世代です。『有楽町であいましょう』のフランク永井の低音にしびれ、川口浩にため息を漏らしました。昼は畑仕事、夜はカンテラで読書(サガンの『悲しみよ、こんにちは』が世を沸かしていて、ウン私も小説を書こうと単純に決心したのです)、そして発動機の音がやかましかった巡回シネマ。
 この巡回シネマは1929年、バウルーで創立された「日伯シネマ社」が発端で本拠地をサンパウロへ移し、また業者も増えていき、一大ブームとなりました。…これも青春なのです。いろんな形の青春があって…、青春は青春なのです。
 日本で「活動写真」が公開されたのが1897年。ブラジルはヨーロッパから輸入した「活動写真」がリオで上映されたのが1903年、サンパウロ市に映画館が現れたのは1904年ごろと見られます。翌年には巡回シネマがイトゥー市で上映されたという記録もあるそうです。そのうち常設映画館ができるわけですが、テアトロ・サンパウロなどの建設工事にはコンデ街の大工や左官がかなり参加しています。
 トシタロウがリベルダーデで柔道を習っていた頃は、まさに、日本映画の黄金期でした。まず戦後移民が再開され、日系社会に新しい風(是非はともかく)が吹き込まれた。当時は日本のものは何でもすばらしいと考えられたものです。
 そしてシネ・ニテロイ(1953年、祝賀上映が源氏物語)ができたことが、ガルボン・ブエノ街を塗りかえました。映画館ができたことで、コンデ街の立ち退き令をうけて散っていった日本人商店がこちらに進出してきたからなんです。
 シネ・ニテロイの建物は5階。2階から上は食堂。ホール、ホテル。ここでは身近に「日本」を満喫できました。奥地からやってきては、日本の映画を観、日本料理を食べ、風呂に浸かって休息する。それが移民たちのとりあえずの夢で、そんな夢でもみんながみんな叶えられなかった時代です。そのうち、新婚旅行でやってくるカップルも出始めました。
 最近は外国が新婚旅行の定番ですが…日系社会も懐が潤沢になりましたね。シネ・ニテロイの前の舗道はこうこうと明るく、看板のちょんまげや島田を結った日本の女性が微笑んでいてまぶしかったですねえ…。私のこの記憶は60年初頭でしょうか。(つづく)

写真=本の表紙