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ブラジル文学に登場する日系人像を探る 7…東洋街生まれの「フジエ」…中田 みちよ=第3回=めるくめくリベルダーデ

ニッケイ新聞 2013年5月23日

 人生思いがけないことがあるもんですね。濫読もばかにしてはいけません。別件で『山本喜誉司評伝』を読んでいたら、このシネ・ニテロイ創立時に看板を描いたのが、日本初のイラストレーターとなった「長尾みのる」だということがわかりました。工芸美術大学をでたけど、日本は狭いし、舞台美術をやろうにも劇場はないし…で、たまたま、「サンパウロ四百年祭」の件で日本へ行っていた山本喜誉司の記事をよんで、押しかけていくわけです。
 当時は海外渡航がたいへん困難な時代でしたから、いろいろ裏技を使って「商業美術視察のため」というパスポートを得てやってきました。サンパウロで最初に見つけた仕事が、シネ・ニテロイの看板かき。ブラジルに着いて三日目ごろに仕事を探してガルボン・ブエノ街にぶらぶらやってくると、完成間近のシネ・ニテロイ劇場があった。主人の田中義数が喜んで雇ってくれた。
 ですから、祝賀上映された源氏物語の看板は長尾みのるの手にかかっているはず。そりゃ、タナキニャも喜んだでしょうね。美校出の人たちですからね。絵を売りながら奥地を放浪し、そのうち小金ができたので、ヨーロッパへわたって美術の勉強となるわけです。
 こうして新しい「日本人街」が形成されていったのですが、この中に「フジエ」の作者、アントニオも生活していました。今、ちょっと計算してみたら、私が看板をまぶしく仰いでいた頃、ジョアン・アントニオも映画館通いをしていたんですね。作者自身が「日本人の時代」があったと、インタビューで答えているほどですから。「フジエ」で語られるリベルダーデには、感覚的に違和感がありませんし、年齢も近く、当時のリベルダーデを生きたことがある作者には一種の絆を感じます。
 『それまで、日本に、日本のものに心を惹かれることなどなかった。そんな俺にリベルダーデのレストランで酒を飲ませ、日本の映画を観せてくれた。それから、版画や日本画や刺青。俺は神秘的なそれらのものに魅せられていった。たとえば、雪や日本の建築。着物をきて従順に恥ずかしそうにふるまう映画の中の可憐な女性たち。繊細な詩情があふれる別の世界に一足飛びに埋没できる。楽しかった。まるで不思議な世界に足を踏み入れたようだ。鑑賞する。味わう。ここから絶対遠ざかることはないだろう。柔道、民話、芝居、写真。すべてがすごく気に入っていた。それはめくるめくような世界だった』
 これは作者の生の声として私には聞こえます。
 たとえば、同じ日本人を描いていても、ギマランエス(外交官)やギリェルメとはまた違うんですね。日本人に対する温度差がある。前者ふたりはハイソサイエティ出身。彼らはフロック・コートを着ているところがあるんですが、ジョアン・アントニオは普段着です。父親がアナーキストのイタリア移民出だったゼリア・ガタイにも、おなじ労働者として筆先に親しみを感じますが、金も暇もあったハイソサイエティーの出身者は何カ国語にも通じて教養もあったでしょうが…距離があります。
 まあ、識字率が半分以下だった戦前、物書きは上流階級の特権的な色合いを帯びていましたから無理もありませんが。
 ジョアン・アントニオは処女出版の人気がジャーナリストとしての道を開き、「ブラジル」紙の記者になりました。大学に新聞科が設置されたのが1963、4年ごろで、それまではたたき上げが多かった世界です。当時、私はコチアの広報課にいて、「コオペルコチア」誌の同僚(コチア組合の広報課は『農業と協同』という日本語版と『コオペルコチア』というポルトガル語版の広報誌を発行していた)が、「ガッコウデ」に記事が書けるかとあざ笑っていたのを、傍で眺めていましたからね。(つづく)