ニッケイ新聞 2013年5月24日
ミゲール・コウトという男
では、何故、排日法は成立してしまったのだろうか?
この法案提出の中心人物ミゲール・コウトは、医学界の大物であったが、実はアルベルト・トーレスやフィデリス・レイスの同志でもあった。つまり熱烈なナショナリストであった。彼はレイス法案が葬られたときは激怒した。が、諦めることはなかった。以後、時機到来を待ち続けていた。
その間、1930年、無血革命が起こり、ゼッツリオ・バルガスが政権を握った。対してサンパウロ州が、1932年、叛旗を翻し内乱となる。これはバルガス革命政府軍の勝利で終わるが、バルガスはサンパウロ州の不満を慰撫するため、憲法制定を急いだ。その制憲議会の議員となって乗り込んできたのが、ミゲール・コウトだったのである。
この時、250名余の議員の中にアルベルト・トーレス友の会(その学説の継承者の会)と親密な者やコウトと同じ医学界関係者が多数混じっていた。
駐リオ日本大使館は、これに注意を払うべきであった。が、気づかぬまま、大使林久次郎はアマゾン旅行へ出かけてしまった。しかも、旅行から帰った後も、林は、この排日法案阻止のために積極的に動こうとはしなかった。
先に記した様に、サンパウロから古谷や宮坂たちが駆けつけた時も同様で、一行を唖然(あぜん)とさせ、かつ落胆、憤慨させた。同行したブラジル時報の黒石は、サンパウロへ戻ると、紙面で痛烈に林を攻撃、即刻日本へ帰れ、とののし罵った。日伯新聞の三浦は、リオ行以前から林を厳しく攻撃していた。
林が、やっと動き出したのは、日本で広田外相が前記の発言をした後である。
ミゲール・コウトは、その日本移民制限の大義名分として「外国移民によって職を奪われる国内の失業者保護」「ブラジル人種型統一の必要と不同化分子の排除」「領土的野心を抱いて渡来する帝国主義的移民への警戒」などを掲げていた。
第一点については、次の様な経緯がある。
これより先、バルガス革命政権は、国内の失業者保護のため、外国移民の受け入れ制限令を出していた。が、日本移民は以前と同様、大量に入国を続けた。
これにコウトが怒って、政府に抗議をすると、政府からは「制限令は、失業者が大量に出ている都市労働者を対象としたものである。農村労働者は、そういう深刻な状況にはない。日本移民は農業者である」という答えが返ってきた。
そこで、コウトは「農業界でも、北伯には失業者が多い。彼らを南部へ移動・就労させるために日本移民を制限せよ」と要求したのである。
第二点の不同化分子の排除は、アルベルト・トーレス以来の主張である。
この点に関し、コウト以外の排日修正案の提出者の一人は、「日本移民は全く風俗習慣を異にし、しかも、それに飽く迄固執せんとし、他人種との雑婚を歓迎しない」「分離独立して集団生活を営む」「ブラジル官憲に服従するより、むしろ本国政府の出先役人に服従する」と厳しく批判した。
また、別の提案者は「日本人は余りに祖国愛が強く、移民としては不適当なる国民」と断じた。
この不同化性に関しては、制憲議会で日本移民擁護論を唱えたカルロス・M・アンドラーデ議員が「時が一切を解決する」と反論した。日本移民の同化は、他国移民と比較、緩慢ではあるが進んでいるという意味である。
緩慢であるのは、ポルトガル語の習得が──特に成人になってから渡航してきた者の場合──困難であったことにもよる。
第三点の帝国主義的移民……云々の批判は、当時の日本の満州移民を事例として引いていた。
ミゲール・コウトが、この法案成立にかけた執念は凄まじく、議会での演説は「獅子吼」と形容された。一命を賭していたとも言われる。事実、法案成立の翌月、急逝している。(つづく)