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森和弘の秘められた過去=勝ち負け抗争と二世心理=(1)=二人の父を銃弾で失う=「戦争終われば日本に帰る」

ニッケイ新聞 2013年5月28日

 「私はこの経験を、ほとんど話したことがない」——副市長を3期も務めた外科医、森和弘(83、二世)はそう前置きすると、静かに、しかし臆することなく語り始めた。「スザノのカズヒロ・モリ」といえば、ブラジル社会に積極的に貢献してきた有名な二世という印象が強い——だが、彼がそれを志した裏には悲しい原体験にはあることは、あまり知られていない。終戦翌年の7月10日夜7時半頃、まだ中学生だった和弘をあまりに悲しい事件が襲った。〃二人の父〃を一度に撃ち殺されたのだ。

 「お父さんが勝ち負け抗争の被害者では?」という記者の質問に、和弘は驚いたような表情を浮かべた。政治家としてのカズヒロ・モリはほとんど日語をしゃべらない。だから取材もポ語で始まった。
 「パパイは戦争中、『この戦争はすぐに日本の勝利で終わる。そうなったら家族で引上げるから、ブラジル学校に行く必要はない』と繰り返し言っていた。だから家庭内ではずっと日本語だった」との下りを聞き、家庭内では日本語で人格形成したことが分かった。取材の途中から日本語に切り替えたが、まったく困った様子もなく普通に答え続けた。
 「ゴイチ(父)はパトリオッタ(愛国者)だった」と断言する。当時の日本移民の大半がそうであり、愛国者の多くは勝ち組だったはずだ。
 ゴイチは日本で教育を受け、公務員までしていた。渡伯後もビラッキ有数の立派なバールを経営する才覚に恵まれていた。「ゴイチは町では知られた存在で、警察から特別にお目こぼしをもらって自宅でラジオをこっそり聞いていた。毎朝5時半頃、布団を頭からかぶって、隣に音が聞こえないように東京ラジオのニュースを聞き、日記にその内容を書き付けていた。開戦から終戦までこれぐらい書き溜めていたが、決して人には見せなかった」と両手で30センチほどの空間を示した。
 「すぐに戦争は日本の勝利で終わる。そうしたら家族で日本に帰る」とのゴイチの方針で、1944年頃、小学校を終えた和弘は中学に行かず、一年間を棒に振った。
 「その頃から私は勉強を続け、大学に行きたいと考えていた。だから『中学に行かせてくれ』と頼み込み、翌年からアラサツーバ市に出て州立校に入学した」。ノロエステが誇る立派な「アラサツーバ学園」の寄宿舎から公立校に通った。
 当時、和弘は教師や周りからは「法科大学にいって弁護士になったら」と薦められたが、「とにかく大学で勉強したい」としか考えていなかった。
 ゴイチは東京ラジオの内容から独自に戦況分析をしていた。「父は日米の兵器製造能力の違いや、南洋に広がりすぎた日本の前線を維持する兵力数に関する疑問を持っていて、1945年の最初の頃にはこのままでは日本は危ないと感じていた」と思い出す。「アメリカが1日で作る飛行機台数を、日本は1カ月かかる、このままでは敵わないと言っていた」という。当時そのような冷静な観察をしていたのは、ごく一部だった。
 「パパイがバールを経営していた関係で、みんなが『日本はどうなったか?』と聞きに来た。『勝った勝ったと皆が言っているが、本当にそうなのか』と。そんな時、ゴイチは『天皇陛下が降伏宣言を出された』とありのままに言ったという。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)

写真=悲しい過去を語り始めた森和弘さん