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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(13)

ニッケイ新聞 2013年5月30日

 当時、永住・同化を唱えた文化人は、他に古野菊生、半田知雄らが居たが、古野も戦後、帰国している。古野が、帰国の折、その〃後ろめたさ〃の様な心境を、正直に邦字新聞の紙面で告白していたことを筆者は覚えている。
 拓殖事業家、新聞人として名の知られていた輪湖俊午郎という人物がいた。彼も同じ論者であった。これが1940年、日本建国二千六百年祭に、邦人社会代表の一人として訪日した。ところが、ブラジルに戻るや、日本軍が占領した海南島への再移住論者にコロリと転向しており、世間を呆れさせた。
 邦人社会では、1934年頃から農業者に「定住愛土」を奨めるガット運動なるものが生まれていた。が、その運動推進者の古関徳弥は1941年、休暇をとって帰国中、海南島の調査に行っている。
 元駐アルゼンチン公使・古谷重綱(既述)が、1937年、文教普及会の会長を引き受け、永住・同化を基本とする教育方針を打ち出した。が、外務省派遣の事務長や総領事館の担当領事が、正反対の意見をブチ上げ、邦人社会からも古谷説に反発の声が上がった。すると、古谷はアッサリ会長の椅子を投げ出してしまった。
 リオの日本大使館付き武官の中西良介大佐は、1939年、邦字新聞紙上で「在留邦人は、日本という実家からブラジルという他家に養子に来たようなもの」「移民は、ブラジル国民となり骨を埋める覚悟で来たと思う」「二世以下は、純然たるブラジル民となるであろう」といった趣旨の私見を発表した。
 これが邦人たちを憤慨させた。彼らは、養子に来た気も骨を埋めるつもりもなかった。子供を純然たるブラジル人にさせる考えもなかった。第一、子供を日本人として教育することは、総領事館が文教普及会を通じて推し進めた政策である。
 同じ日本政府を代表する、しかも陸軍大佐から、イキナリこんなことを言われては、たまったものではなかった。
 抗議を受けた中西は、自説を修正したが、そのため論旨が一貫せず、おかしな具合になってしまった。
 文化人、有識者の永住・同化論は、邦人社会を騒がせ、空回りしただけで終わった。
 邦字紙サンパウロ州新報社長であった香山六郎が戦後著した『移民四十年史』の中には、輪湖の転向の事例を引いた次の様な一節がある。(311頁)
 「ブラジル永住論なるものが理論的にはそれを裏づける確固たるものが何もなかったことをさらけだしたにすぎない」
 他に、1930年代、日系の大学生の中に、邦人の日本第一主義的な考え方に、反発する声が上がったことがある。
 日系の大学生といっても、まだ少数であったが、日伯学生連盟という名の集りを持っていた。その中のブラジル生まれの学生の一部が、小冊子を通じて、1938年「自分たちは、まずブラジル人である」という意識を鮮明にしたのである。
 これは日系社会に衝撃を与えた。
 しかし、日系人の大学生は未だ僅(わず)かしか居なかった。そのためもあって、これは世論とはならなかった。

 追討ちは続く

 バルガスの、ナショナリズムによる邦人社会への追討ちは続いた。外国語の出版物への制限を始めたのである。特に新聞を標的としていた。
 ただし外国語といっても、実際はドイツ、イタリア、日本の枢軸国系のそれを対象にしていた。
 制限は、欧州でヒットラーがポーランドに侵攻、英国が対独宣戦布告をした(第二次世界大戦開戦)直後から始まった。1939年9月のことである。
 バルガスは、英国の同盟国である米国に経済的に依存しており、いわば首根っこを押さえられていた。枢軸国語の出版物の制限は、ナショナリズムだけでなく、これも大きく影響した。(つづく)