ニッケイ新聞 2013年5月30日
自分にかけていた布団をずらして児玉の足にかけようとした。その布団の上に抜け落ちた屋根の隙間から容赦なく雪が舞い込んでくる。湿気を含むだけ含み重たくなった掛け布団をずらす力も老人にはなかった。掴んだ布団の淵から手が外れて、児玉の膝にぶつかった。弱々しく、軽く叩かれたような感触でしかなかった。
被爆者はため息とも呻きともとれる声を一瞬上げた。
年老いた被爆者は目を見開いたままゆっくりと倒れて壁にぶつかり止った。
児玉を案内してくれた被爆者協会のスタッフが異変に気づいた。首筋に手を当てて脈を確認した。
「アイゴー」と叫んだ。
児玉には何が起きたのかわからなかった。
老被爆者は絶命していた。
その時の被爆者の声が、日本に帰国してからも児玉の耳から離れなかった。
「そうやって日本人は今も朝鮮の民衆の生命を奪っているのよ」
美子の言い草一つ一つに児玉は言いようのない怒りを覚えた。そして無性に悲しかった。
「そういう君がいったい何をしているというんだよ」
「在日の私が何故韓国の民衆のために償いをしなければならないの」
「美子は日本人に言葉を奪われ、文化を奪われ、挙句の果てに両親は帰化して日本に忠誠を誓ってしまった。だからまずは言葉と文化を取り戻すことから始めなければならないんだよな」
何度も美子から聞かされたセリフだ。酒も入らず冷静な時なら、真摯に対応するが、有り金すべてが在韓被爆者の薬代に消えてしまった。そんなものは砂漠に降る雨の一滴にもならないが、それ以上いったい何ができるというのか。金科玉条のごとく口を開けば、日本人の償い、贖罪、歴史の清算という言葉が会話の端々に出てきた。それにも児玉はうんざりしていた。
「そうよ。在日としての民族的アイデンティティを獲得するためにウリマルも勉強しているし、カヤ琴も稽古しているの」
「民族的アイデンティティか。民族の誇りか。でも、韓国語は俺より下手だし、カヤ琴だって埃を被っているじゃないか。民族の誇りが埃にまみれているよ。それも日本人のせいか」
美子は頓服を水なしで口に含んだような顔をした。
「いいかげんにして」
「だって事実だろう。それに在日の君が、韓国にいる民衆と同じ視線、同じ地平に立って、日本を批判し、非難するのは何かが間違っている。そんな気がするんだ、俺は」
「何が違うというの。私の体には……」
「もういいって血の話は。俺が何故韓国語を勉強しているかわかるか」
「そんなの知らないわよ」
早稲田大学には語学研究所があり、そこではアラビア語や韓国語を学ぶことができた。韓国語の授業に出席する学生はほとんどが在日で、日本人の学生は数人程度だった。
釜山港から釜山駅やバスターミナルまでタクシーでも十数分の距離だが、日本人とわかると通常料金の五倍も六倍も取られた。日本語を話せる運転手と料金で何度も揉めた。
「日本人から通常の五、六倍取って何が悪いんだ」運転手は平然と言ってのけた。「在日僑胞からは三倍、日本人さらにその二倍。これが俺たちの常識だ」
それからというもの児玉は必死に韓国語を勉強した。不当な料金に抗議して喧嘩になれば、多勢に無勢、袋叩きに遭うのは明らかだ。せめて三倍の料金で済ませるには、在日なみの韓国語を話す必要があった。
「美子が韓国に行って、同じ民族だと言ったところでどう扱われるか、試しに一度行ったらいい」
飲んで言いたい放題の児玉に呆れ果てたのか、美子は黙り込んでしまった。
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