ニッケイ新聞 2013年4月18日
「幸代の家族は北に行ったのか」
期待して入った朝鮮統一研だったが、幸代は次第に身の置き場に困るようになった。明らかに場違いといった視線で彼女は見られた。
朝鮮統一研で話題になるのは、朴大統領の軍事独裁政権に対する批判や、韓国留学中にスパイ容疑で逮捕された在日二世の救援活動についてだった。北朝鮮に帰国した家族について話し合うということもなかった。祖国が統一されれば、民族差別も解消する。今は独裁政権を打倒し、民主国家を打ち建てることが何よりも重要課題だ。朴政権打倒、祖国統一に在日は何をなすべきか、そのことに彼らの関心が集中していた。
幸代は朴政権打倒にも、祖国の統一にもそれほど関心はなかった。差別のないところで一家が共に慎ましく暮らせればそれで十分だった。何故、一家が二つの国に分かれて、しかも所在がわからないという状態を何年も続けなければならないのか、その理由を知りたかっただけなのだ。
在日の在り方についても、幸代は違和感を覚えた。家庭では親同士は朝鮮語を日常会話として使っていた。しかし、子供たちと話すときは朝鮮語を使ったり、日本語を混ぜたりして使った。幸代にとっては日本語を使う方が自然だった。幸代にとって朝鮮語は学ぶべき両親の国の言葉でしかなかった。
「幸代、言葉を獲得することだよ。まずその壁を乗り越えなければ民族的自我の確立なんて無理だ」
朝鮮統一研に所属する学生は口を揃えて幸代に忠告した。幸代にとって民族的自我の確立などまったく意味のないことだった。朝鮮語を習得して、民族的自我を確立したとしても差別から解放される訳でもない。差別するのは日本人であり、彼らの意識が変わらないかぎり、在日はいつまでも差別されるに違いないと思った。
朴政権を打倒しても、祖国が統一されたとしても、それが差別からの解放につながるとは到底思えなかった。声高に叫ぶ朴政権打倒、民主化、祖国統一もすべてが空しいスローガンに感じられた。結局朝鮮統一研にも居場所を見出すことはできず、自然と足も遠退いた。虚脱感に襲われながら講義を受ける日々が続いた。そんな時に出会ったのが箱根だった。
箱根は富山県出身で幸代と同じようにロシア語を学ぶクラスにいた。高校時代から学生運動をしていたらしく各セクトの主張をよく理解していた。箱根は反帝学評に所属していたが、早稲田大学では少数派で、文学部を拠点に早稲田大学を牛耳っていた革マル派とは対立関係にあった。
箱根が反帝学評だということが文学部に知れ渡るにはさほど時間はかからなかった。新入生のオルグにやってくる革マルを箱根はことあるごとに批判した。革マルの情報網も正確で、箱根の出身校を割り出すと、高校での彼の活動歴をすぐに洗い出してきた。反帝学評の拠点は法政大学にあった。箱根に尾行がつき法政大学の自治会室に入るところまで裏を取られていた。
箱根もそれを否定しようともせずに堂々と論陣を張った。箱根のその態度に好感が持てたということもあるが、幸代が最も惹かれたのは彼が在日朝鮮人差別について言及したときである。
幸代が早稲田に入学する数年前、文学部の前にある穴八幡神社で山村政明という在日が焼身自殺をはかった。革マルは民青(民主主義青年同盟)の誤った解放理論が死に至らしめたと日共系のセクトを非難していた。オルグに来た革マル派が山村政明の自殺に触れ、民青批判を展開した。その説明を聞き終えると箱根が言った。
「それならば革マル派は何故、山村政明を救えなかったのか。それを聞かせてくれ」
箱根は挑発的だった。オルグは待ってましたとばかりにマルクス主義の概要を述べ、世界同時革命、プロレタリアートの独裁、そして労働者革命が達成された暁にすべての人間が差別から解放されるとセクトの理論をぶち上げた。
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