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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第62回

ニッケイ新聞 2013年4月26日

「適当に二人前握って下さい。あとビールを」
 二人は冷たいビールで乾杯した。
「小宮さん、聞いてもいい」
「どうぞ」
「どうしてモブラールなんかで勉強しようと思ったんですか」
「ブラジル人のところで勉強すれば、それだけ早く上達できるし、ブラジルに馴染めると思ったんです」
「叫子さんは……」
「私の理由は簡単よ、ポルトガル語を早く話せるようになりたいというのはあなたと同じだけど、お金がないからモブラールで勉強しようと思っただけ」
「叫子さんはいつ移住してきたんですか」
「一九六九年のあるぜんちな丸で」
「農業移民だったんですか」
「アマゾンのトメアス移住地に呼び寄せ移民で入ったのよ」
「トメアスですか。家族で移住してきたんですか」
「一人というわけではないけど、まあ、一人みたいなものね」
「どういうことですか」
「私のこと知りたい」
「ええ、差し支えなければ」
「コロニアの人は皆、知っていることだから教えてあげるわ。エリザベスサンダースホームって知っている」
「名前くらいは」
「私はそこの出身なの」
 エリザベスサンダースホームは沢田美喜によって一九四七年に創設された。進駐軍のアメリカ兵と日本人女性との間に生まれた日米混血児のための養育施設だ。開設から一年と三か月間の間に入園者数は百人に達していた。入園者が学齢期に達するとサンダースホームがあった大磯町では、混血児たちをどう扱うかが問題になった。町立小学校のPTAは別に校舎を設けて、そこにホームの子供たちを入れるという提案をしてきた。そのために沢田はホームの中に小学校を建設した。その結果多くの子供たちは外界と触れることなくホームで成長した。
 その後にアメリカ、カナダ、オーストラリアに養子縁組で渡ったホーム出身者が多かったが、ブラジルに移住して来た混血児も十人いる。彼女はその中の一人だった。
「私は東京駅ホームのベンチの下で泣き叫んでいるところを発見、保護されたんだって。それで東駅叫子という名前がつけられたらしい」
 発見された時の状況から日本人の女性とアメリカ兵との間に生まれた子供だということは明らかだった。彼女はそのままエリザベスサンダースホームに預けられた。
「そうだったんですか。私が知っているのは日米の混血児たちがアイノコとかクロンボと差別され、サンダースホームで暮らしていたということだけで、アメリカやブラジルに移住していたことまでは知りませんでした」
「沢田ママがトメアスに聖ステパノ農場を建設して、そこに私たちを入植させ自立させようとしたのよ。ブラジルには差別がないというのが一番の理由だったわ」
「それで叫子さんは移住してきたわけだ」
「そういうこと」
 彼女は冷たいビールを美味しそうに喉に流し込んだ。
「ご両親の消息は全くわからないんですか」
「どこで何をしているのか、どんな人なのかも私は知らないわ。でも、みんなが想像するほど、親がいなくて寂しい思いをしたということはなかったのよ。だって生まれた時からホームで育っているでしょう。親というものを考えたこともなかったし、考えるにもどういう人を親というのか、それさえわからなかった。だから親がいなくて寂しいなんていうことはなかったのよ」
「両親に育てられた私には想像がつきません」


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