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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第63回

ニッケイ新聞 2013年4月27日

「他の子供がどんな暮らし方をしているかなんて、まったくわからなかった。今でも沢田先生のことはママだと思っているけど、ママや保母さんと本当のお母さんは違うんだってわかったのは、小学校の高学年になってからのことよ」
 サンダースホームには、第一期、二期の入園者が小学校に入学する頃、朝鮮戦争で日本に駐留したアメリカ兵との間に生まれた子供たちが、入園してきた。中には母親に手を引かれてやって来る子もいた。
「母親と別れる時に寂しそうにしたり、泣いたりているのよね。そういう子は、時々母親が面会に来てくれる。本当に嬉しそうにしている光景を何度も見ているうちに、あれがお母さんなんだなということがわかってきた。でもお母さんが欲しいという気持ちは湧いてこなかった」
 小学校中学年までは一部屋に二十人前後の子供たちが寝起きを共にしていた。高学年になると男子と女子が分けられて、二段ベッドが二つ置かれた部屋で四人が生活する。彼らの楽しみは、テレビを観ることだった。
「沢田先生が見せてくれたのは、NHK教育テレビ、名犬ラッシーとララミー牧場だけ。他の番組を見たくて、保母さんたちが見ている歌謡ショーやプロレスを障子の穴からそっと隠れて覗いて見ていたの」
「ラッシーとかララミー牧場は私も見ていました。懐かしいなあ」
「小宮さんも私と同年代なの」
「そのようですね。私は昭和二十三年生まれです」
「私の方が一歳年上ね」
「叫子さんはブラジル移住する前、日本には恋人はいなかったんですか」
「いなかったわ。肌の黒い日本人を好きになる男が日本にいると思う」
 どんな言葉を返していいのか小宮は戸惑った。結局、黙って叫子の言うことを聞くしかなかった。
「ホームの中学を卒業して、沢田先生の知人の家でお手伝いをしていた。そうしたらブラジルに移住して農場の仕事を手伝ってほしいと、先生から言われたの。両親がいれば、いろいろ考えたでしょうけど、いくら考えても現われるわけでもないしね。ブラジル行きの話も、深く考えずに承諾してしまったのよ」
 こうして彼女はあるぜんちな丸に乗船した。
「日本に親戚一人いるわけでもないし、船が港を離れる時、他の移民の人は泣いていたけど、私は泣かなかった。荷物も衣類を持ってきたぐらいで、大切な思い出の品なんて何もなかったわ。そうかと言って、ブラジルに大きな夢を抱いてやってきたというわけでもなかった。ただブラジルに移住すれば、クロンボって言われないですむと漠然と考えていたくらいかな」
 叫子は四十五日間の船旅を終えてパラー州ベレン港に下り立った。ここで船を乗り換えて、一晩アマゾン川支流を遡ったところにトメアス移住地があった。サンダースホーム移民の第一陣、二陣は、この移住地に入植し、聖ステパノ農場でピメンタ(胡椒)栽培に汗を流していた。しかし、彼女がトメアスに着いた頃には、皮肉なことに農場は崩壊の道を歩んでいた。
 トメアスには九人の仲間が待っていると思っていたが、農場に残っていたのは三人だけだった。移住する前に彼らは小岩井農場で牧畜、養鶏の農業実習を積んできた。しかし、熱帯性気候アマゾンの開拓農業には、そんな技術や知識は何の役にも立たなかった。過酷な自然の中での重労働、乏しい娯楽、彼らの心は次第にささくれ立っていった。不平、不満、仕事の能率低下、些細なことでの衝突、一人抜け出すと農場を出る者が相次いだ。
「私も食事をつくりながら、ピメンタの収穫作業を手伝ったのよ」
 ピメンタは二メートルほどの支柱に蔦が絡みつき、房に無数の小さな実を結ぶ。最初のうちは深緑色をしているが、熟してくると真っ赤に色が変わる。収穫は篭を首にぶら下げて房ごと篭の中に落としていく。一杯になると今度はそれをたらい盥の中に満たして足で揉む。足踏みをしながら房から実を揉み落とすのである。


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