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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第24回

ニッケイ新聞 2013年3月1日

 ホンダはアマゾン中流の都市マナウスに築いた現地工場で二輪車の生産を開始、リオやサンパウロの大都市に出回ったオートバイの整備、修理の技術者が不足していた。小宮は日本で一級整備士の資格を持ち、高給で採用された。アクリマソン区は近くに緑あふれる公園がある閑静な住宅街だ。東洋人街には日系の移民が多かったが、経済力をつけ社会的地位が向上するに連れて、彼らは静かなアクリマソン区に移り、その後に韓国系移民がかつての日本人住居地区に住み着くようになった。
 アパートからは公園を見下ろすことができた。太陽が上るのと同時に鳥たちは一斉にさえずり始める。空に向かって真っ直ぐに伸びたユーカリの木が見える。しかし、鳥の巣はそこにはなさそうだ。声が聞こえてくるのはそれほど高い樹木ではなく、絵の具をそのまま塗り付けたような深緑の葉がこんもりと茂った樹木からだった。その木には真っ赤な花が咲き、そこからさえずりは聞こえてくる。
 公園には犬を連れて散歩したり、ジョギングしたりする人の姿も見られた。犬が飼い主にじゃれつきながら、公園のなかほどにある池の方に向かって走って行くのが見えた。犬はこんもりとしたその木の前にくると、何かに向かって吠えた。その瞬間、無数の小鳥が群れをつくってその樹木から空に飛び立つのが見えた。
 そんな光景をアパートのベランダから眺めながら、小宮は日本では得ることのなかった開放感に浸っていた。アパートはドイス・ドルミトオリオ(二寝室)サーラ(応接室)、キッチン、バストイレで日本では二LDKということになる。その他にもクワルト・デ・エンプレガーダ(女中部屋)まで併設されていた。アパートの周囲の環境も閑静で申し分なかった。
 小宮はサンパウロに来て間もなく車を買った。イタリアのフィアットにするかフォルクスワーゲンにするか迷ったが、当分の間は一人暮らしを続けることになる。カブト虫とよばれる小型車で用は足りた。収入的には住み込みのお手伝いさんを雇うことはできたが、週に三回ほど通いで来てもらい、掃除と洗濯だけはしてもらうことにした。高校卒業後、一人暮らしを続けてきた小宮にはそれだけで十分だった。
 日本で送ってきた生活とは雲泥の差があった。一級整備士という資格が、ここでは弁護士資格ほどの意味があった。環境に恵まれたアパートを会社が用意したということは、最低でも三、四年は働いてほしいという会社側の意向の表れでもある。ブラジルでは引き抜きは日常茶飯事であり、一ヶ所の会社にいすわっていると、この国では能力がないと見なされる。少しでも高給を得るために有能な人間は数年ごとに会社を替える。それを防ぐためには新来の技術者とはいえ、それなりの待遇をしなければ他社に引き抜かれてしまう。
 小宮は埼玉県H市で生まれた。地元の工業高校を卒業すると、親戚の紹介で埼玉県内にある自動車整備工場に就職した。その工場で働きながら整備士の資格を取得した。少ない給料から少しずつだったが貯金もしていた。将来故郷に戻り、自動車の販売と整備工場を経営するのが夢で、そのための蓄えだった。
 整備工場で働き五年が経った頃、小宮は恋をした。相手の女性は自動車部品を販売する営業所で働いていた。その営業所に出入りしているうちに、彼女と知り合った。小宮は彼女を食事に誘い、それから交際が始まった。
 恋人の武政佐織はH市の隣のK郡で生まれた。故郷が近かったということも、二人が急速に親しくなった理由の一つだ。休みの日には他のカップルがそうするように映画を見たり、ドライブをしたり、食事をしてデートを楽しんでいた。小宮はそれまで恋愛経験がなかったわけではない。しかし、結婚を考えるようになった女性は佐織が最初だった。


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