ニッケイ新聞 2013年3月2日
佐織の実家は代々農家で、広大な土地を所有していた。牧畜をやるほどの広さはないにしても、野菜を中心に生産する近郊農業を営むには十分だった。農家を継ぐ者が減少しているなかで、佐織の両親も長男の一敏が農家を継ぐのかどうかを心配していた。しかし、長男は東京の大学の農学部を卒業し、家業を継いだ。野菜を東京近郊に出荷し、温室なども次々に建設し近代化された農業を目指していた。
一家の生活は平均的なサラリーマンに比べればはるかに恵まれていた。武政家は何代も続く庄屋の家系で田畑、山林を所有し、戦後の農地改革で土地を奪われはしたが、その土地も親戚、縁者に委譲したために、その後しばらくしてそれらのほとんどを買い戻した。日本が復興していくに連れて、都市人口も増加し、農業収入も順調に伸びていった。
高度成長に伴い都市化の波は埼玉県K郡にまで押し寄せて来た。山林は切り開かれ宅地となり、屋根の色も形も広さもまったく同じ一戸建ての住宅がなだらかな斜面に建ち並んだ。多くのサラリーマンにとって一戸建ての家に住むことは夢である。しかし、道路に面している住宅は別だが、ほとんどの住宅は四方を同じような家に囲まれていて、一戸建てと言っても家の全体像を見ることはできない。
一度でいいから、遠くから我が家の姿を見てみたいともらしたサラリーマンがいた。一戸建てを手に入れては見たものの、都内のマンションや社宅での暮らしと何も変わることはなかったと不満を漏らした。彼らは二時間以上もかけて都内の会社に通勤していた。
佐織の父親は事業の才能があったのか、サラリーマンを対象に宅地を分譲し、マンションを建設した。そ菜用の温室を設け、急激に膨張した新たな住人に野菜を供給した。農業の基盤は父親が築いたといってもいいだろう。一敏はそれを引継ぎ、さらに近代的な経営を目指した。
両親は大学とはいわないまでも、佐織にも短大か専門学校に進学することを望んでいたが、それほど勉強が好きというわけでもなくコネで自動車部品会社に就職した。両親、特に父親は、女は家庭にはいるものと端から決めてかかり、そうした父親に反発するわけでもなく、佐織自身もそれが自然なことと考えていた。将来は見合いでもして、適当な相手を見つけて、実家近くで暮らせればいいと漠然と思っていた。
しかし、親の進める縁談には見向きもしなかったが、結婚を考えている男性がいると両親に打ち明けたのは高校を卒業してから三年が経過した頃だった。両親もさほど驚く様子はなかった。いくら見合いの話があっても、相手の写真すら見ようとしなかったことから、両親は好きな男性がいるのだろうとおおよその見当はつけていたようだ。
佐織は経済的には何不自由もなく育ったせいか、おっとりとした性格をしていた。大学を卒業し、出版社で働きたいとか、テレビ局で仕事をしたいとか、そんな夢を語り合う友人たちとは一線を画していた。別に夢がないわけではないが、そうした夢のために、受験勉強をする気にはなれなかった。それよりも適齢期になったら好きな男性と結婚し、子供を出産し、家庭を築くだけでも十分に幸福な気がした。
佐織は父親のコネで地元の会社に就職した。小宮はその店に部品を購入するためにしばしば顔を見せた。佐織にお世辞をいうわけでもなく、必要な部品を注文したり仕入れたりして整備工場にもどっていく小宮になんとなく好感を抱いた。無意識のうちに父親に似た無骨さを感じていたせいかもしれない。
佐織の父親は、毎朝畑に出ては農作業をしていた。彼女がもの心つく頃には機械化が進み、以前のような農作業をする必要はなくなっていたが、それでも父親は日課のように畑に出ては、畑や畦道に少しでも草が生えると手でむしり取っていた。父親は野菜や米を育てることが好きでたまらないといった根っからの百姓だった。
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