ニッケイ新聞 2013年3月6日
何度も同じ経験をするうちに、用事があるとか、勉強、宿題というのは嘘で、引き離される原因は小宮の住む地区にあることが、子供ながらわかってくる。
そうした大人の陰湿さとは対照的に子供の世界は特別な配慮はなかった。小宮が放課後、遊ぼうとしたり、仲間に加わったりしようとすると、拒否されるようになった。
「小宮君と遊ぶなって、お母さんから言われた」
拒否する理由をその同級生も知っていたわけではない。ただ小宮と遊ぶと、親から注意され叱られるということだけははっきりしていた。中には親の言葉をそのまま言う者もいた。
「小宮君の家はブラクだから遊んではいけないんだって」
その子供は無邪気に言った。「ブラク」という響きを小宮が最初に聞いたのは、この時だった。何故、部落の子供とは遊んではいけないのか、その理由をだれも教えてくれしなかったし、知らなかった。ただ大人の視線や言葉の端々に、直接的な侮蔑ではないが、拒まれているのを肌で感じた。
その夜、小宮は母親に聞いた。
「ブラクって何だ」
母親の顔が一瞬にして青ざめたことを、小宮は今でもはっきりと覚えている。そして、父親もそれまで見たこともない険しい顔つきに変わった。
「清一、だれが言ったんだ」
噴き上げる火のように激しく憤る父親の姿に、小宮は遊び仲間の名前を小さな声で答えた。その名前を聞くと同時に、父親は止める母親の手を振り切って外に飛び出していった。後でわかったことだが、父親はその家に怒鳴り込んで行ったのだ。
そこで父親が何を言ったのか、小宮は教えてもらえなかったが、翌日から同級生たちの小宮を見る目は明らかに昨日までとは異なっていた。親から注意されたのか、小宮に向かって「ブラク」という言葉を使う子供はいなくなった。小宮が遊びに加わろうとしても拒否する子供もいなくなった。
しかし、小宮は少しも楽しくなかった。周囲は彼を腫れ物にでも触るかのような扱いで接してきた。彼が遊びに加わると、どんな遊びもしばらくすると終わってしまい、子供達は家に帰っていった。そんなことが何度か繰り返され、結局小宮の方から遊びに加わるのをやめてしまった。
それ以後彼が部落について両親について聞くこともなかったし、両親も彼に部落について語ることもなかった。ただ被差別部落と呼ばれる地域に生まれ、育ったものは、それ以外の地区で生まれた育ったものとは明らかに異なった扱いを受ける事実を知った。そんなことがあってから小宮は部落に触れるあらゆる話題を避けるようになった。
中学でも、高校に進学してからも「同和教育」と呼ばれるものはあった。授業中、小宮は部落の歴史に他の生徒より熱心に耳を傾け、特別な関心を抱いていた。しかし、そのことを他のクラスメートに悟られまいとして、「今どきこんな話、関係ないだろう。だれがこんな差別をするんだ」と無関心を装った。それは差別から身を守るための自己防衛本能だったのかもしれない。
高校の同和教育の授業で多くの生徒が、差別を自分がするわけがないと答えた。小宮も同じ答え方をした。一人だけ違う考えを述べていたのは、小宮と同じ部落から通う生徒だった。
「皆は知らないからそんなことが言えるんだ。部落差別は今も存在する。部落出身だという理由で就職差別を受けた例はいくらでもあるんだ」
苛立つような口調で意見を述べる同級生の声は、小宮を責めているようにも感じられた。小宮は俯き加減に顔を伏せ、その生徒の意見を聞いていたが、内心では耳を塞ぎたい気分だった。
差別があることは小宮にも十分にわかっていた。子供の頃に受けた大人たちのあの視線が簡単に消え去るとは思えなかった。ただ部落差別を知らない人間が増えてきているのも現実だった。知らない人間に敢えて部落差別の存在を強調する必要はないと小宮は考えた。沈黙を通せば知らない人間が差別をするはずがないと思った。
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