ニッケイ新聞 2013年3月8日
部落出身であるという理由で結婚が破談になる事実を、小宮は最も身近なところで体験した。この事件以来、姉は見合いも恋愛もせずに、今も独身だ。そんな姉の姿を見ているので、佐織と出会った時は、早い時期に部落出身であることを告げようと思った。結婚という段階になってその事実を明かし、破談になったのではあまりにも傷が大きく、立ち直れないと思ったのだ。
しかし、佐織と交際を続け、結婚を意識し打ち明けなければと思えば思うほどそのチャンスが見つからなかった。いや、チャンスがないというのは正確ではない。話す時間はいくらでもあった。ただ小宮にそれを切り出す勇気がなかっただけだ。今日こそは話そうと思ってデートするが、いざその場になると、彼女はそんなことにこだわる人間ではない、何も今話す必要はないだろうという思いが夏の積乱雲のように、心に沸き起こった。
帰宅すると、告白できなかった自分に腹を立て自己嫌悪に陥った。もう何度も同じことを繰り返している。自分自身でも優柔不断な性格だとは思っていない。実際、整備工場で働いていたときも、経営者から自分の意見を求められれば、上司と対立する意見でも平気で主張し、周囲をハラハラさせた。しかし、このことに関してだけは臆病になった。
何かを言い出そうとして言えずに苛立つ小宮に、佐織は戸惑っていた。
「最近の小宮さん、少し変です。急に怒り出したり、無口になったり。何かあったんですか。私、力になってやることはできないかもしれないけど、お話を聞くくらいはできます」
いつまでも煮え切らない態度を取り続けるわけにはいかなかった。意を決してついに自分の出身について語った。
二人は関越自動車道を新潟方面に向かって走っていた。右手方向に榛名山が、左手に赤城山が聳え、正面に谷川岳が迫っていた。萌えるような新緑が車窓に流れた。
「きれいね、緑が」
佐織が言ったが、小宮はその言葉には答えなかった。
「以前、話したいことがあるって言っていたのを覚えているか」
「ええ」
「どうしても、君に言っておきたいことがあるんだ」
小宮は正面だけを見据えていたが、運転に集中するためにだけではなかった。その気になれば佐織のほうを一瞥する余裕はあったが、彼女の様子をうかがいながら打ち明ける勇気などなかった。
「おまえ、被差別部落というのを知っているか」
「それって、同和地区のこと」
「そうだ」
「高校の授業で勉強したくらいだけど……、それがどうかしたの」
佐織も緊張しながら小宮の言葉を待っている様子だった。
「実は俺、その部落出身なんだ」
「それで……」
佐織には小宮が重大なことを告白しているという認識はなかったようだ。今度は小宮の方が拍子抜けしてしまった。
「被差別部落出身だというと、世間の人の中には差別する人もいるからな、それで言っておいた方がいいと思って……」
「小宮さんって、結構、古い考え方する人なのね。そんなの江戸時代の話でしょう。私たちには関係ないわ」
「そうか、それならいいんだ」
部落にまつわる二人の会話はそれで終わってしまった。それ以後この話題が二人の間で交わされることはなかった。
小宮は水上温泉に向かって走った。その夜、二人は家には戻らずホテルに泊まった。
結婚話はその後とんとん拍子に進んで行った。プロポーズらしいプロポーズの言葉もなかった。
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