ニッケイ新聞 2013年3月16日
こんなやりとりをしたのもわずか一年前のことだった。例の事件があってから初めて会っているのだ。喘ぐような息遣いで佐織が聞いた。「お話ってなんでしょうか」
「もちろん俺たち二人のことだ。今のままでは俺の気持ちも整理がつかないし、それは君も同じだと思うけど」
佐織は何も答えなかった。俯いたままカフェオレに手を伸ばした。カップを掴む手が微かに震えている。
「俺は今でも君のことを好きだし、愛している。君と結婚して、二人で暮らしたい。そう思っているんだ」
佐織は口元まで運んだカフェオレは一口も飲まずに再びテーブルに置いた。佐織はこの日、初めて小宮と視線を合わせた。小宮は潤む佐織の瞳を見つめながら言った。
「幸福にする自信はある。家を出てくれ」
小宮はどれほど自分が佐織を愛し、必要としているのか、この数ヶ月の間、改めて思い知らされた。佐織に対する思いは暗闇でゆらめく炎のように燃え盛っていた。
二人が結婚するには、彼女が家を出るしか術はなかった。小宮はその決断を迫ったのだ。しかし、小宮は内心では佐織は結婚を断るだろうと予想していた。ただ自分の本心を打ち明けないままブラジルに移住したのでは、後悔すると思ったのだ。
万が一、佐織がブラジル移住に同意してくれれば、永住査証は佐織にも直ぐに発給される。またブラジルに行くことには反対でも、武政の家を出て、二人で暮らしてくれるのなら彼女の望むところで夫婦として生活を始めてもいいと思った。
もし、それが拒否されるのであれば、もう日本になどいたくはなかった。時間が経てば新しい恋人は見つかるかもしれない。しかし、恋愛の度にこんなにつらい思いをするのかと想像するだけで、背筋が凍る思いだった。
小宮はじっと佐織を見つめていた。佐織はバッグからハンカチを取り出すと一度だけ涙を拭き、ハンカチをしまうと答えた。
「あなたの気持ちは本当に嬉しいけれど、御免なさい。あなたとは結婚できません。家族を捨てることはできません」
「そうか、わかった。仕方ない」
「許して下さい」
「いや、許せない」
小宮は自分でも予期していない言葉を口にした。しかし、それは小宮の本心でもあった。
「御免なさい。許して」懇願する口調で佐織がもう一度、許しを求めた。
「君も両親と同じだ。部落の人間を差別している。他の人間を差別できるほど君の家系は優れているのか」
怒鳴りながら小宮はそのまま喫茶店を出た。夏の名残の強い陽射しがまだ照り付けていた。店を出ると同時に汗が噴き出してきた。駅前の駐車場に車は止めてあった。小宮は足速に逃げるようにして駐車場に向かった。汗が流れ落ちた。ハンカチで汗を拭った。拭っても額から汗が吹き出したが、流れ落ちたのは汗だけではなかった。ハンカチで顔を拭きながら、その時、小宮は自分でも気付かないうちに泣いていた。
それから数日後、小宮はたった一人で羽田国際空港に現われた。移住することは家族にも佐織にも告げなかった。
炭鉱移民
「アチバイアまでどのくらいかかる」
児玉は運転手のアントニオに聞いた。アントニオはもう十年近くパウリスタ新聞社の運転手をしている。精悍な顔付きをした黒人で、サンパウロ市内や近郊の町なら正確な住所さえ告げれば、最短距離で目的地に連れていってくれる。
「市内が渋滞していなければ一時間もあれば十分だ」
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