ニッケイ新聞 2013年2月5日付け
美子の口調が急に変わった。ベッドから体を起こすと、児玉の顔を上から覗き込み尖った声で言った。
「私と同じような人間をこの世に生みたくないの」
「俺はそんな生き方をしたくない。君にそんな生き方をしてほしいとも思っていない」
「これは私の生き方なの。どんな生き方をしても私の自由でしょう。寂しい時、何も言わず抱き締めてくれる男がいれば、私はそれでいいの」
「俺にはそんな生き方はできない」
「あなたにそれを求めているわけではないでしょう」
「わかった」
「別れましょう」
別れの瞬間はあっけなかった。児玉は着替えを済ますと階下に下りた。美子もガウンを羽織って玄関まで着いてきた。
「元気でな」
美子は黙ってうなずいた。児玉がドアのノブに手をかけた。
「児玉君……」
美子が声をかけた。児玉は背中を彼女に向けたまま振り返ろうとはしなかった。
「元気でいてね、私、あなたのこと一生、忘れない」
美子の声を背中で聞きながら児玉は静かにドアを閉めた。S駅に出るまでは西武線に平行して続く細い道をしばらく歩く。通り道にある公園で児玉は足を止めた。街灯の明りで時計を見た。最終電車は終わり自宅に帰ることはできなかった。ベンチに腰を下ろすと桜の花びらが夜風に舞い落ちた。
「桜の季節も終わったな」児玉は一人呟いた。そして、この次、桜の花を見るのはいつになるのかと思った。
「児玉さん、起きて下さい」
小宮の声で児玉は目を覚ました。
「もうすぐロサンゼルスに着きますよ」
児玉は座席から体を起こすと、機体は降下を開始していた。
「それにしても熟睡されていましたね。海外旅行は初めてだし、日本ともしばらくはお別れだと思うと、僕らは興奮してほとんど眠るとはできなかった」
「仕事がたまっていて、その処理に最後の十日間は追われっぱなしだったから、疲れていたんだよ」
児玉が眠そうな目をこすりながら言った。疲労が蓄積していたことも事実だが、美子のことを考えると酒を飲まずにいられなかった。いつ寝たのかもわからないほど児玉は泥酔していた。
やがて日航機はロサンゼルスに着陸した。七人の移民は国際協力事業団の引率員に案内されて空港近くのホテルにチェックインした。現地時間ではまだ明け方で、ブラジル航空の出発時間までは十時間以上あった。それまではホテルで休むことができた。他の移民は観光を兼ねてダウンタウンへ繰り出して行ったが、児玉はひたすら眠るだけだった。
夕方、目を覚まし移民たちは再び空港に戻り、ブラジル航空の搭乗手続きを済ませた。機内には日本人の乗客は彼らだけでブラジル人乗客が多かった。彼らはアメリカ観光を楽しんで帰国するのか、食事が出された後も大声で話したり笑ったり、隣に寝ている客がいても遠慮する様子などなかった。
「ブラジル人は何事にもおおらかとは聞いていましたが、エチケットも何もあったものではありませんね」
小宮は他の移民と打ち溶けることができないのか、しきりに児玉に話しかけてきた。
「そうだね、本当にうるさい連中だ。でも、ブラジルで暮らすにはこれに慣れるしかないんだろうね」
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