ニッケイ新聞 2013年2月8日
イタイプーダム建設の〃8人の侍〃の一人、荒木昭次郎さんから「現在関わっているダム建設現場でブラジル人と話していたら、近くに日本人植民地があると偶然聞きました」とメールが来た。赤道直下アマパー州都マカパー市に近いマタピー植民地のことだ▼日本政府は53年9月に同地への第一陣24家族、近くのファゼンジーニャに5家族を送り込んだ。第二陣は翌54年9月に16家族をマタピーに、5家族を後者に。最後の第三陣は57年にマサゴン植民地に7家族だ。04年9月にマカパー文協会長から取材し、「計57家族が入ったが現在まで営農を続けるものはごくわずか」と記事に書いた▼荒木さんはこのマタピーを訪れ「ごくわずか」の一人、目黒喜代子さん(89、宮城)家族と会ってきた。「40年前に亡くなったご主人の宗一さんは、ここからは絶対に出ませんと言っていました」と話していたという。なぜその地に「ごくわずか」しか残らなかったか。出て行った者らはどんな無念を抱えていたのか…▼まさか現代にダムを作るような辺境に当時植民地を作ったとは——と荒木さんは驚いたことだろう。「目黒さんが立派な子孫を育て上げたことに感激致しました」とメールにあった。普通なら逃げ出すような場所でも立派に子孫を育てて現地社会に貢献する。そんな移民人生が積み重なった頂点に、ブラジル社会から見た「日本人への信頼感」という〃御旗〃が翻っているのでは▼戦後移住60周年の今年、ベレン総領事館を駐在官事務所に縮小する話が持ち上がった。目黒さんのような一移民が人柱となって築いた〃橋頭堡〃を日本政府はどうするつもりか。(深)