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《戦後移民60周年》=聖南開拓に殉じた元代議士 山崎釼二=『南十字星は偽らず』後日談=第11回=なぜ讃南だけ残ったか=一人だけポ語で人格形成

ニッケイ新聞 2013年2月15日

渡伯後の幸せそうな山崎家。左奥がアイン、中央が釼二、左の娘が朱実、右の息子が讃南(雑誌『曠野の星』51号より)

渡伯後の幸せそうな山崎家。左奥がアイン、中央が釼二、左の娘が朱実、右の息子が讃南(雑誌『曠野の星』51号より)

 ブラジルに残された讃南はどうなったか。宮尾は「たしか『こどものその』に入っていたはず」といい、坂尾も「その男の子は後にリオに住んでいた」というが、これは何を意味するのか。もしや置いて行かれたのか、まさか著名人がそんなことを!——という謎が残る。
 第4回で紹介した尾崎士郎の言葉には、山崎の息子の一人が半身不随の上、日本脳炎になる不幸に見舞われたとあった。それと符合するような宮尾の言葉を頼りに「こどものその」東洋街事務所に調査を依頼すると「今までの入園者名簿を全部調べたがその名前はなかった」との回答が返ってきた。どうやらこの線で調べるのは無理だ。
 その後の取材で押切が讃南とも同僚だったことが分かった。押切は三菱商事から同系列の現地会社CBCに移り、30年間勤め上げたが、このCBC時代に讃南と同僚だった。押切はサンパウロ市勤務、讃南はリオ勤務だったため一緒に仕事をしたことはないが面識はあったという。
 「讃南が知恵遅れ? 全然そんなことないですよ。会話は普通でしたし、営業成績も普通だった」という。
 残された子供は「讃南」、つまり三男だ。尾崎の言葉をよく読み返すと、日本脳炎に罹ったのは次男の栄楠だ。
 さらに押切は「彼とはほとんどポ語で会話だった。日本語で話した記憶がないね」という意外な事実を明らかにした。アマゾンから出聖した直後の1年間一緒に住んでいた田形によれば、「讃南ちゃんは普通に日本語で話していましたよ。あの当時まだ10歳ぐらいでしたが」と証言する。
 もしや山崎は、最初から当地永住を意図し、讃南を寄宿学校に預けたのか。
 『曠野の星』にその答えがでていた。山崎の死後、《十一歳になる男の子は渡邉マルガリーダ夫人の温かい手で、中央線ポアにあるカトリック経営の寄宿舎に入れて貰ってブラジルの初等科三年生の勉強をしており、七歳になる女の子は手許に育て乍ら伯語校の一年生の勉強をしている》(58頁)とあった。
 つまり讃南は100%ポ語環境で10代を過ごして人格形成したから、アインが帰国するときには日本語を忘れてしまい、満足に使えなくなっていた可能性がある。だから「自分はブラジルに残る」と決断したのか。アインが帰国したと思われる65年に讃南は18歳になっていた。つまり、自分のことがある程度判断できる年だ。
 田形は「アインさんが帰国の挨拶に来た時に、『讃南はボーイスカウトをやっているから細江ドクターに預けていく』と言っていました」と付け加えた。
 押切にも「なぜ讃南はアインと一緒に帰国しなかったのか」との疑問をぶつけると、「すでにブラジル人の恋人ができていて帰ろうとか思わなかったんじゃないですかね。その女性はゴイアス出身で、讃南はCBCを辞めたあと、そっちに転居したと聞きました。以来まったく音信不通です」との情報をもたらした。
 CBCリオ現地会社が70年代に閉鎖されたというので、それをキッカケに移ったのか。山崎とアインが出会ったのはボルネオの東山農事、ブラジルで息子讃南が同じ三菱系列に勤めていたのも何かの縁か。
  ☆    ☆
 「ゴイアスのブラジル人女性」というところで、また手繰る糸が途切れてしまった。サンパウロ人文科学研究所の松阪健児に相談すると、ネットで調査し興味深い情報を教えてくれた。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)