屋良家は1970年ごろに出聖して縫製業を始めた。家族総出で朝7時から夜12時まで働いた。屋良さんは「うちは姉妹が多くて縫物なら女、子供でもできた。寝る間も惜しんで働きました」と言う。 今は一人暮らし。週に一度、近郊のグアルーリョス市から息子が訪れる。屋良さんは「ブラジルに来たばかりのときは日本に戻りたいと思っていました。でも ...
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銃剣とブルドーザー=米軍に美田奪われた伊佐浜移民=(4)=強制接収から2年、ブラジルへ
戦中のことを語る屋良さん サンパウロ市カーザ・ヴェルデ地区在住の伊佐浜移民、屋良朝二(やら・ともじ)さん(78)の一家は戦前、フィリピン・ダバオでマニラ麻の農園に従事していた。戦争が始まると敵性国民として追い立てられ、他の日本人たちとともに避難生活が続いた。まともに食べる物がないなか逃げ回り、みんな足を悪くしたり、病気になった ...
続きを読む »銃剣とブルドーザー=米軍に美田奪われた伊佐浜移民=(3)=「犬コロのように追い払われた」
銃剣を構えた米兵とブルドーザー、クレーン、ダンプカー、トラックが現れたのは、7月19日のまだ日の昇りきらない早朝4時半のことだった。接収は前日の18日に予定されていたので、地主の一人は「予期はしていたが未明には思わず油断していた」(『琉球新報、55年7月19日夕刊』)とコメントしている。 午前5時には農地の周囲に鉄条網を張り ...
続きを読む »銃剣とブルドーザー=米軍に美田奪われた伊佐浜移民=(2)=戦中、機関銃で家族3人失う
「本当は戦争のことも、土地闘争のことも話したくありません」。そう切り出したのは伊佐浜移民のひとり澤岻安信(たくし・あんしん)さん(85)だ。昨年末、澤岻さんの知人宅で取材した際、同席した同県人にウチナーグチ(沖縄の方言)で促されるなか、戦中の体験から少しずつ語り始めた。 激烈な沖縄戦の最中の1945年4月、澤岻さんは13歳だ ...
続きを読む »銃剣とブルドーザー=米軍に美田奪われた伊佐浜移民=(1)=「男たちに任せておけない」
終戦から10年目の1955年7月19日、「沖縄有数の美田」といわれた宜野湾市伊佐浜の土地、さらに家屋までが米軍によって強制接収された。土地を失った10家族が縁故のいない未知の国、ブラジルに移住したのはその2年後のことだった。「伊佐浜土地闘争」は強制接収に対する初期の抵抗運動として、その後の「島ぐるみ闘争」で象徴的に語られる史実 ...
続きを読む »主権回復の4月28日は、沖縄には「屈辱の日」
「皆さん、今日4月28日が何の日か知っていますか?」―講演の冒頭で、山城千秋・熊本大学教授が聴衆に質問したが、誰も答えられなかった。ブラジル沖縄移民研究塾(宮城あきら代表)が主催する第1回文化講演会「沖縄産業開発青年隊が果たした歴史的役割」が本部講堂で行われた時の一幕だ。 「1952年のこの日、サンフランシスコ講和条約が結ば ...
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