グルメクラブ
5月14日(金)
ポルトガル・リスボンの南東百五十キロ。アレンテージョは古くからのワインの名産地だ。十五世紀以来の伝統を誇る。同地区の中心エヴォラ。そこで造られるペラ・マンカは現存する世界最古のワインのひとつに数えられる。
少女が騎士に一杯のワインを差し出す―その瓶ラベルの図柄が特徴的だ。五百年間、モデルチェンジなし、の〃ギネス〃もの。この酒はブラジルを「発見した」カブラルが愛した品といわれている。そしてブラジルで最初に飲まれたワインだったと。上陸後、カブラルはインディオにペラ・マンカを振る舞い、インディオは自慢のトウモロコシ酒で応えたという。
そして植民地時代。一五三二年、マデイラ島から初めてヨーロッパ種ブドウの種苗を持ち込まれた。その後、種はブラス・クバスによって、サン・ヴィセンテ海岸付近に試験的に植えられる。ときは一五五一年のことだ。サンパウロへの入植が開始されると、現タツアペ区でも栽培された。
だが、ポルトガル王室はブラジルでのワイン生産を禁止。セレモニーの席などで需要はあったが、消費はもっぱら輸入銘柄に限られる。結局、ブラジルワインの産声を聞くのは、イタリア移民がやって来る一八七〇年代を待つことになる。
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国内生産量の九割以上を生産する、リオ・グランデ・ド・スル州セラ・ガウシャを抜きに、ブラジルワインは語れない。イタリア北東部ヴェネトからの移民が、同州に集まったのは振り返れば好運だった。ヴェネトはイタリア有数のワインの産地である。
二十世紀初頭、彼らパイオニアたちが醸造所を建設。大手では〇八年「モナコ」、一〇年「サルトン」「ドレヘル」、一五年「アルマンド・ペテロンゴ」などだ。協同組合も組織した。しかし、七〇年代までは作付されるブドウのほとんどがアメリカ種でジュースかテーブルワイン向き。技術的な遅れも目立った。
ブラジルワインの革命が起こるのは実質、外国企業の進出以後のことだ。七三年、ウルグアイの伝統的な造り手であるカルラウ家が「シャトー・ラカヴェ」を発売。翌年には、さらに四カ国の企業が相次いでブラジル入りする。会社名とそのワイン銘柄を列記すると、イタリアのマルチニ・ロッシ(バロン・デ・ランチエール)、フランスのモエ・エ・シャンドン(シャンドン)、カナダのシーグラム(フォレスティエル)、アメリカのアルマデン(アルマデン)。巨額の投資によって近代的工場が設置されると同時に、良質なワイン造りを可能とするヨーロッパ種ブドウの移植が本格化する。ブラジルワインの夜明けであった。
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バイア、ペルナンブッコ両州にまたがるサンフランシスコ河。その平野部がワイン新天地として脚光を浴びている。先鞭をつけた会社第一号もイタリア系、ベルモット酒で知られるチンザノだ。六〇年代にベルモット生産に乗り出した。
七〇年代。灌漑設備などインフラが整い始めると、同地一帯は熱帯果実の一大生産地へと成長。じきにヨーロッパ種ブドウの作付も試みられるようになる。シラー種、マルベック種などセラ・ガウシャの土壌では不向きと烙印を押された品種の一部もここではよく適応。カナダ系シーグラム、リオ・グランデ・ド・スル州のミオロやベンテックなど有力ワイナリーが競って地元の果実生産農家と手を組んだ。
本場セラ・ガウシャは実は多雨多湿でブドウ栽培に最適とはいえない気候条件にあることも後押しした。湿度は害虫に歓迎されるのでワイン造りにおいては大敵だ。一方、ノルデステは土地の安さ、乾燥した気候、高い生産性など多くの面で条件が整っていた。同じような理由から、いま、リオ・グランデ・ド・スル州ではセラ・ガウシャからパンパ地帯カンパニャ・ガウシャに拠点を設ける企業も増えている。
ブラジルワインは折からの世界的なワインブームを追い風に、高品質化、多様化が進んでいる。ワイナリーの中ではとりわけ、かつて大手・老舗の「傘下」にあったところが元気だ。醸造学や経営学を学んだ新世代の造り手が先代を引き継ぎ、自社製品の革新を図って成功している。ミオロ、ヴァルドゥガを筆頭に、ダル・ピゾル、ボスカト、ドン・ラウリノ、マルソン、ピザット、ロヴァラのベンテックなどは一押しの注目株。
サルトンなど老舗の奮闘、欧米外資の進出も絡んで、ブラジルワインの勢いは止まりそうにない。