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チェ・アメリカ・ラチーナ1=チリ

グルメクラブ

5月28日(金)

  革命家が初めから革命家であるということは恐らく、ない。少なくとも、後にチェ・ゲバラと呼ばれることになる、アルゼンチン人エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナの場合はそうだった。
 一九二八年、裕福な家庭に生まれ、大学は医学部に進学しハンセン病研究を専攻。学生時代はボードレールや、チリの詩人パブロ・ネルーダの作品を読みふけった。スポーツはラグビー、趣味は旅行。どこにでもいる、ありふれた青年に過ぎなかった。持病の喘息でラグビーの試合も途中退場すること度々。踊りが上手く踊れないためパーティーでは傍観者を決めこんだ。恋人はいたが、かなりの奥手だった。
 サナギが殻を破る契機は、一九五二年に訪れる。友人アルベルトと出かけた南米大陸縦断のバイク旅行だ。ときにエルネストは二十三歳。ベネズエラまで約一万二千キロ、二人は青春のロマンを求める冒険のつもりでいたのだが……。
 待ち受けていたのは、貧富の差や社会の不均衡といったラテンアメリカの「影」だった。旅を終えエルネストは、「もう旅する前の自分でなくなった」と独語する。青年の人生は、旅の路上で大きく転換する。そうした過程をさりげなく巧みに描いている映画が、ヴァルテル・サレス監督「ディアーリオ・デ・モトシクレッタ」だ。
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 原作はエルネストの旅行記「ノッタス・デ・ヴィアジェ」(邦題『モーターサイクル南米旅行日記』)と、アルベルトの「コン・エル・チェ・ポル・アメリカ・ラチーナ」である。
 「あの旅に出かけた時代、アルゼンチン人の多くはインカや南米大陸のことよりも、ギリシャやフェニキアについての方が詳しかった。マチュピチュが何処にあるかも知らなかったぐらいだ」
 アルベルトの言葉で、映画の道筋が見えてきたとサレス監督は語る。二人の若者が、未知なる南米大陸を発見しつつ、同時に外界に触発され「自分」に目覚めてゆく姿を撮ろうと、その時決めたという。
 実際、映画は、特に中盤に差し掛かるまでの間、発見の喜びに満ちている。転倒を繰り返しながらもバイクは大草原パンパ、雪降るバリロッチェを走り抜け、チリ南部の海岸地帯へ。魚市場で売られている、アルゼンチンでは珍しい多彩な魚介類を前にし二人は童心返ったりする。
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 この辺りまではいわゆるロードムービー、一種の青春グラフィティといった感じを漂わせる。それが最高潮に達する場面は、チリの田舎町で女の子をハントする場面だろう。所持金が尽きた上、寝具を風で飛ばされたばかり。旅の現実が身にしみ始めていた頃だ。
 土地の女の子二人が現われる。異国の旅人が気になる様子をみせるながら、レストランに入る。格好の「獲物」が現われたとエルネストもアルベルトも思った。後を追う。店は閑古鳥が鳴いているが、「満席のようだね。相席をお願いしていいかな」と、ナンパの常套文句で声を掛ける。
 腰を下ろすや「きょうは旅の記念日。だけど祝うお金に困っているんだ」と率直に打ち明ける。
 すると、女の子たちは二人の旅人のためギャルソンに赤ワインを頼む。
 それを受けて、エルネストは「いきなりワインは飲めない」。アルベルトは続けて、「そうそう、アルゼンチンでは空腹でワインを飲んではいけないという慣わしがあったな」
 その次のカットでエンパナダが注文される。「で、いくつ欲しい?十二個でいいかしら」
 空腹の二人は顔を見合わせ、「十二も!アルゼンチンではとっても縁起のいい数字なんだ」と、大喜びするといった具合だ。
 ――だが、そんな青春グラフィティも、長くは続かない。じきにバイクが廃車になり、ヒッチハイクや徒歩で砂漠を横断するはめになる。旅は「峠」に入る。過酷な労働条件の下、銅山で身を粉にして働くインディオたちの姿を目の当たりにし、ハンセン病患者の隔離区域ではボランティアとして働く。抜き差しならない現実に対し、無力である二人は、多くの場合、ただ見つめていることしか出来ない。ラテンアメリカの「影」が、二人の旅の路上に深く垂れこめる。
 映画の中盤以降、ロマンの冒険は終わり告げ、無邪気なだけではいられなくなる様が描かれる。それゆえに、エンパナダのほのぼのとしたエピソードが、ありきたりと思える旅のワンシーンが、観賞後に至っても妙に印象に残るのだ。
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 後にも先にも、(無一文に近い状況での旅行だったせいもあるが)この映画に名物料理が登場する土地は、チリだけである。そこで、二人の旅行の背景に確かにあった南米大陸の料理文化にもっと触れたいと思った。まずは、若きゲバラが賞味したエンパナダを追体験しようと考え、ピニェイロス区アルツル・デ・アゼヴェド街九〇六のチリ料理屋「エル・グアトン」に向かった。
 ブラジルに来て二十七年になるという、チリ移民が店主だ。スペイン語なまりの消えないポルトガル語を話す。牛乳瓶底レンズの眼鏡に愛嬌がある。少し赤味かかった顔色は映画でも見かけたが、ひとつの典型のような気もする。サンチアゴの出身と聞いた。
 きょうは寒い。温まるものがいい、とりあえずは、チリワインの代表的銘柄タラパカーと、エンパナダをと告げた。目当ての品の中身は数種あり、最もポピュラーなひき肉と、ムール貝の変り種を注文した。
 小麦粉のパイで具を包むエンパナダは明らかに「餃子文化」だ。約二千五百年前、遥か西方からシルクロードによって現在の位中国まで運ばれてきた、小麦を粉にする技術は、黄河流域に根を下ろし、さまざまな料理を開花。うちひとつが、餃子だった。今度は、小麦粉がやってきたシルクロードを逆に辿って、西域にその「餃子文化」が伝わる。韓国のマンドゥ、インドのサモサ、イタリアのラビオリもそうだ。そして大航海時代を経て、スペインのエンパナダが植民地の南米大陸に広がってゆく。
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 アツアツの焼きたてを、アヒというチリソ―スで頂く。口中からほかほか温まる。夏季とはいえ、凍える寒さに震えながらアルゼンチン、チリ南部を走破したエスネストたちが、エンパナダにありついたとき、のぞかせた感激の面持ちが蘇ってきた。
 パイ生地は厚い。パステルびいきには不満かもしれない。店のメニューにパステル・デ・チョクロと書かれた品もある。チョクロはチリ弁でとうもろこしのことだという。ミーリョのパステルかと想像したが、まったく違っていた。見た目はグラタン、クリーム状のとうもろこしにひき肉、タマネギ、オリーブなどを混ぜ入れ、オーブンで焼き焦がした料理だった。
 ブラジルで言えば、先のエンパナダにしてもそうだが、ゴイアス州の郷土料理に似ている。その旧都ゴイアス・ヴェリョはバンデイランテスの建設した街だ。開拓者にはスペイン人も多かった。インディオとの交流の中で、同じ類の料理が創造されたとしてもおかしくはない。
 ただ、悲しいかなブラジルは、香辛料の使い方で他の南米料理に劣るとはしばし指摘されるところだ。どうしても塩味に頼った味付けに落ち着いてしまっている。同じくインディオの文化を基盤とするチリ、ペルー、ボリヴィアなどの国民はだが、香辛料の特性を生かすことに長けている。
 チリ風シチュー、カスエラ・デ・ヴァクノは、牛肉、米、ジャガイモ、ニンジン、カボチャ、とうもろこしなどが入っていた。ここでもブラジル料理にはない、複雑な香辛料の香りと味を覚える。ほっとする。ハーブの作用か、自律神経の安らぎを実感。寒く厳しい環境にあるアンデス一帯の知恵と見る。
 総じて食後感が軽い。これも香辛料のなす技かもしれない。食材として常にとうもろこしが見当たるが、日本人との間に親和力が働くのを感じた。モンゴロイドの血だと思った。

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