グルメクラブ
10月22日(金)
駅のホームのベンチに腰掛け、暮れなずむ風景を見ながら、次の電車がくるまでぼんやり過ごすなんて、いつ以来のことだろう。普段の移動手段は地下鉄かバス。待ち時間はあまりないし、あればあったでイライラタイム。穏やかな気持ちにはなれない。
モッカ駅。本当にここは都心だろうかと疑いたくなるくらい、長閑な時間が流れている。傍らのビニール袋には、創業一九三五年の菓子屋「ディ・クント」でさっき買ったばかりのケーキ。そのせいもあるのだろうけど、あたりを漂う空気は甘く、郷愁にも似た安堵感を覚えた。
「ディ・クント」のそばに、大手砂糖メーカー「ウニオン」の工場が建っているなんて出来すぎ。ホームからもその看板はよく目立つ。それに、アンタルチカ・ビールの旧工場が駅裏にあるのも知らなかった。英国風レンガ造りの美しい建築だ。ひっそりと朽ちつつあるその風情を眺めているうち、二、三十分は経っただろうか。ようやく電車がホームに入ってきた。
少しセピア色がかった窓から外の景色をみると、見慣れている旧市街の様子もどことなく新鮮だった。茜色の工場・倉庫が並ぶモッカ区から、終点の、これまたレンガ建築のルス駅へ。欧州のどこかの街を走っている気分に襲われた、この区間を「サンパウロ市ロマンチックライン」と名付けよう。
ルスの駅に着いてもぼんやりモードが抜けず、改札を通過する前にベンチで一息。いや、別に疲れているわけではない。急ぐべき用事などないのだし。いつもならあせって駅の外を目指すところを、このゆとり。街全体がのんびり時間に包まれたモッカにしばらくいたせいで、どうも体内時間が狂ってしまったらしい。あるいは、こういうのも、はやり言葉でいえば「スローライフ」?
この「スローライフ」とか「スローフード」といった、ラテン流人生哲学が世界的なブームになって久しい。メディアなんかで喧伝されるとそのコンセプトも一種のファンタジーのように思え、ずいぶん嘘臭さを感じるが、ささやかに実践する方法もあるんだなと、この日、しみじみ思った。
今後、野暮用に忙しくて心があせったりしたときには、電車でモッカに行き、「ディ・クント」のお菓子を買おう。そして、ホームでいつ来るとも知らない電車を待ち、それでも来ないなら、包みをほどいて食べてしまおう。食後眠ければ、ルス駅方面とは逆の、郊外行きの電車に飛び乗って眠ろう。この路線はいつも程よく冷房が効いているのだ。そして、起きたときにはすっかり日が暮れている。これぞ私的「スローライフ」だ。
その日以来、まったり気分が持続しているとはいっても、紙幅に限りがある。そろそろ主題の「ディ・クント」について筆を走らせるときだろう。創業は一九三五年とさきに書いたが、前史がある。現経営者の祖父ドナット・ディ・クントなるイタリア人がナポリの港を出、十七歳でブラジルに来たのは一八七八年、まだ帝政時代のことだった。本当は母方の親せきのいるウルグアイ・モンテビデオを目指していたらしいが、文盲なうえ、四十日間の航海でちょっとした疫病にもかかり混乱、サントス港で降りてしまったのはご愛嬌。知り合いもいない異国の地で奮闘し、大手企業で大工としての職を得るまでに至る。その後来伯した兄弟とブラス区でパン屋を創業。一旦里帰りするが、再び戻り現在の店がある街路に、二軒目のパン屋をオープン。これが一八九六年。
話は続く。ドナットは結局イタリアにUターン、死ぬまで恋焦がれたというサンパウロだが、結局「帰る」ことはなかった。ブラジルで一旗上げようとした、父の夢を引き継ごうと考えたか、子供たちもブラジルに移住。一八九六年に父が立ち上げたパン屋を一九三五年、復活させる。慣れない仕事ながら兄弟力合わせて奮励努力、創意工夫を重ね、現在の繁栄の礎を築いていくことになる。
数ある商品で個人的なお薦めは、まずゼポリス。ナポリ伝統のお菓子で揚げドーナツみたいなもので、生地の中にカスタードクリームが詰まっていて素朴な味わいがある。三月十九日の聖ジュゼッペ(ブラジルではサンジョゼ)祭のときに食べられることで有名。パライーゾ区「モナコ」ではその日のみの限定品だが、「ディ・クント」では常に手に入るようだ。
次いで購うなら、わたしはスフォリアテッレを選ぶ。幾重にもかさねたそのパイ生地は貝殻を思わせ、ぱりっとした歯ごたえがたまらない。ナポリはアマルフィの修道院で生まれたドルチェ(お菓子)という。イタリアをつま先のほうに下って、最南端シチリアものでは、カノーリだろう。筒状のお菓子で、中身はリコッタチーズ。どっしりとした濃厚な味わいだ。強面のマフィアのドンもこれには相好を崩すと聞いている。忘れていたが、シチリアといえばカッサータを真っ先に挙げる必要があった。アラブ文化の影響で、島では砂糖をまぶした乾燥果実をよく食すが、店でもリコッタチーズと一緒に練った商品をみた。それに、イタリア版シュークリーム、プロフィテロールのことを思っても心躍る……と切りがない。
さすがはラ・ドルチェ・ヴィータ(甘い生活)の国。イタリアではアイス(ジェラート)をペろぺろなめている老人とかなりの頻度で出会うが、老いも若きも甘党。子供に至っては、欧州で一番肥満児率が高いそうだ。その割合も、朝日新聞(十月十三日付)によれば三人に一人以上という。「二百年後には全国民が肥満になる恐れもある」と、ホラーのような記述もあった。
うーん。やっぱり考え直そう。「ディ・クント」でどっさりお菓子を買い物した帰りは、電車でなく、ぶらぶら散策するほうが、カロリー消費のためにもよろしいようで。
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