グルメクラブ
1月7日(金)
俳優の川谷卓三似の青年は二十代前半らしく若々しくリズミカルに口を動かしているが、奥歯でしっかり噛み砕いている様子はなく、「(ウ)メー(ウ)メー」と、ヤギのようである。作家の開高健を埼玉県出身にした面構えの四〇代独身男は年相応の落ち着きでよく咀嚼しながら飲み込んでいるが、いちいち味を吟味しているのかウムウムその都度うなずくのでこれも耳障りである。
ある晩、彼ら友人と一緒に、知り合いの韓国人夫婦の家で鍋料理をごちそうになった。ヨン様風の薄ぶちメガネをかけた夫は服飾メーカーで働き、ソウルの美大を出ている茶髪の妻は児童絵画教室の先生だ。ボン・レチーロ区の住宅街、築三十年といった趣のアパート。
「それはプデチゲ(部隊鍋)という料理です」
腹をすかせたニッポン人たちが靴を脱ぐや食卓をチラチラ眺めているので、夫が今夜のメニューを説明し始めた。だが兵役のない国で食い意地ばかりぬくぬく育ててきたニッポン男児、「部隊」の不穏な一語が耳にべっとり張り付いてはない。互いに目配りした。もしや、野営で食べるような料理だろうか。瞬間、プルコギや炭焼きカルビの幻想は霧散し、失望の念がいずれの顔にも深くにじんだ。あるいは、と思った。決戦前夜、最後の晩餐で供されるような豪華版かもしれない。にわかに希望がわいてくる。こうして立ち直り(復興)が早いのもまた、戦後日本の特徴である。
チゲは韓国語で鍋料理を意味し、プデは部隊だ。夫の言葉を継いだ妻は「いま韓国の若者に人気の鍋よ」と語った。「ソーセージ、ポークビーンズ、ベーコン、スパム、ハムなんかが具でキムチ、ニンニク、野菜もたっぷり。味付けの基本はコチュカル(唐辛子)」。なんだアメリカ風韓国鍋だったか。聞きかじりのある横文字食品の名に一同胸をなでおろし、「思ったよりもデリシャスな感じっすね」と、タクゾー君が代弁する。しまりのない哄笑でその場を繕つくろったカイコウ君と、不肖わたくしであった。
「……それで朝鮮戦争のこと知っているでしょう。あのときアメリカ兵が持ち込んだそういった材料を韓国人は鍋にして食べたわけ」と、妻は続けた。「当時はアメリカ軍が投げ捨てたような品を拾って煮込んだの。貧しかったのよ」
分かる、日本もギブ・ミー・チョコレートの時代を経験していますからとカイコウ君が応じた。基地があり、アメリカ文化からの影響が色濃い沖縄でも、とはわたし。コンビーフやスパムが日常の献立に定着しています。
夫によれば、このブデチゲはアーミーの駐屯するソウル郊外ウイジョンブ(議政府)で誕生し広まった。そのボリューム感が、いつもハングリーな若者の心と腹を捕らえ、人気は瞬く間に全国区になったという。だが韓国の若者以上に、ヤンキー食品で細胞を形成してきたのがニッポンのヤング世代だろう。ナショナリズムの熱き血潮も、こと食文化に関してはだいぶ薄まっている。
アメリカがごった煮された鍋を囲み、「星条旗よ永遠なれ、とでも歌いたくなるハッピーな気分だ」と、わたしはいった。カイコウ君は「インスタントラーメンを入れて食べる場合もあるそうだよ。ハンバーグだってオーケーかもしれないね」。タクゾー君も「フライドポテトやオニオンリング、スペアリブなんかを一緒に煮込んでもグッドすね、きっと」と、鍋の具尽きるゴール手前、ラストでぐっと調子を上げてきた。「ホットでスパイシーなアメリカン・コリアン・シチュー、気持ちいい、超気持ちいい」
食後、愛煙組は喫煙所を兼ねた洗濯場へと移動し、窓を開け、紫煙を夜のしじまにくゆらせた。
「ボン・レチーロに韓国料理のレストランはどのくらいあるの?」とわたしが問うと、「さぁ、五十軒、いや、もっとあるだろうな」。夫は答えた。人も車も往来が途絶え、胃袋は熱いが外は寂漠としている。
「日本にも変わった鍋があるかね」。夫に尋ねられたので、まず「やみ鍋」の存在を挙げた。ついで、内田百閒という作家が昔、震災で亡くなった弟子の女性の〃お位牌〃を煮て食ったことがある(『東京日記』)と教えた。夫は怪訝そうな顔で薄く笑った。
何故そんなヘソ曲がりな態度を示してしまったのだろう。あとになってひとり考えた。わたしは恐らく、赤々と煮え立っていた部隊鍋のあぶくに、韓国人の気骨をみていたのだ。アメリカ軍の廃棄食品を食わざるをえなかった時代の屈辱を心にとどめ、リベンジに燃える韓国の人たち。その図太いど根性がまぶしく映ったせいかもしれない。
敗戦以来アメリカの従者に甘んじている青白き顔した現代ニッポン人が衒ってみせたのは、負け惜しみからか。あるいはただいつもの癖で軽薄才子なポーズをとってみただけのことか。