グルメクラブ
1月7日(金)
氷菓の好きな子供だった。小遣いの大半はマンガ本とアイスに消えた。
北陸のN県限定品とは知らずに食べていたイチゴ味の『桃太郎』は当時最も安く三十円、ワンランク上の『あずきバー』や『チョコモナカ』は五十円した。
巨人軍の帽子をかぶった少年は桃を定岡、あずきを西本、チョコを江川と考えていた。名将藤田監督の采配を参考に、銭入れの中をにらみ、最適なローテーションを組んで食べまわすよう努めたが、あわれ定岡を酷使する結果を招き、江川は中七日くらいのペースでしか登板しなかった。
一カ月の小遣いは五百円だったか。立派なカップに入った百円のクリームアイスは手にとるには並々ならぬ勇気が必要で、百五十円という破格の『ジャイアントコーン』は四十度近い高熱が出るウイルス性の風邪でも患わない限り買い与えられなかった。なけなしの小遣いに窮せば、夏は自宅でカキ氷を作ってもらい、冬なら軒先のツララをかじった。
そんなある日、明治乳業が『ボーデンホームメイドタイプ』と称した最高級品を発売したのを知り、心躍った。折りあれ『しょうらいのゆめ』という定番の作文が課されて、「ぼくは、おおきくなったら、ボーデンのアイスを、おなかいっぱい、たべたいとおもいます」とつづったら、クラス担任の草野先生からにぎりこぶしをもらったのも今となっては懐かしい。
長じて多少稼ぐようになると、『ボーデン』など冷蔵庫の余り物ぐらいの感覚で食べた。ほどなくハーゲンダッツと出会い、イタリアンジェラートやフローズンヨーグルトの味も覚えた。こうしてチビだったころの夢は、当時の願いをはるかに上回るレベルで実現した。そのはずが、何か一つ物足りないと思った。幼き日、五百円級のアイスクリームを自由に購入できる大人とはエライ存在なのだと信じていたが、どうも事情が違うようだ。そんな齟齬にわたしは悩んだ。
先日パウリスタ通りで、ピコレーを買い求めた。ピコレーとはポ語で、「ビニール袋に入ったアイスキャンディー」を意味し、たいていの場合、よれた野球帽をかぶったオジサンが売っている。一本五十センターヴォが相場で、アメンドイン、ミーリョ、ジャッカ、ココ、ゴイアバなどが揃うあたりはブラジルらしい。そのらしい品のひとつ、アメンドインとジャッカを続けてがぶりと食べたらこれがうまい。無性にうまかった。『あずきバー』、もしくは日本が誇る伝統の『ホームランバー』路線の味だった。このとき、わたし(の舌)はある意味で、子供のままなのだと実感した。
ブラジル最初のアイスクリームが誕生するのは一八三四年八月、リオの港に百六十七トンという巨大な氷塊を積んだ米国籍の商船『マダガスカル』号が到着したときのことだ。そんなブラジルのアイスクリーム話を特集した『GULA』二月号を読み返していたら次の一文が目にとまった。
「リオに初めてアイスクリームが登場したときの市民の反響、それは一九六七年にイギリスのマリー・クワント社がミニスカートを発売したときの衝撃に共通するものがあった」
舌に乗せれば冷たくヒリヒリする、と思えば、今度はジワジワ溶け始める。一部市民は氷を食べると内蔵をヤケドすると半ば本気で信じ、官憲はそれを〃禁断の味〃と判断した。さてアイスクリームは是か非か。当時十三歳、のちのドン・ペドロ二世の審判が待たれた。試食された王子はとりわけピタンガ味を好み、膝をはっしと打った。「われ氷菓の虜なり」。すると、リオ旧市街には皇室御用達を謳ったイタリア人経営のアイスクリーム屋など、その道の先駆けが現われだす。ちなみに王子が愛したピタンガの和名がふとももであると分かり、「ミニスカート」「氷菓」の二題噺を思いついた。いずれも最初は世相に受け入れられなかったが、フトモモの魅力が流行の起爆剤となったというオチだ。
ブラジルの大手アイスクリームメーカー、キボン社のホームページでこんな話をみた。「バーやカフェ、あるいはお菓子屋に入店することを長く禁じられていたブラジルの女性たちが必ずしもその古き因習に従わなくなったのは、氷菓がそうした場所に登場し始めてからのことになる」
振り返れば六〇年代に誕生したミニスカートにしても、女性の社会進出とはきっても切り離せない現象であり、それは女性開放のシンボルとして認識された。氷菓もまた同じような歴史を持っていたわけだ。
時は流れ、ミニスカートをはいた女性がアイスをなめながら街を大股闊歩する姿など珍しくもなんともない時代を迎えた。かつての特権を次々と奪われ、寄る辺がなくなるばかりの男たちはどんな気分でいるか。
いつの日か、色あせたキャップをかぶり、かつての自分のようなチビっ子を相手に、ピコレーをささやかに商いたいなどという淡い幻想に慰安を見出したりしている。少なくとも私はそうだ。