グルメクラブ
5月13日(金)
一九〇二年ミナスジェライス州ディアマンティナ生まれのジュセリノ・クビチェックが大統領になったのは五十三歳のときであった。「五年で五十年」の進歩・改革を旗印に、未開の広野に新首都を建設すると発表した。一八八二年に工事が始まったバルセロナのサグラダファミリア教会でさえ、あと二百年は掛かると言われているくらいである。一国の首都ならば、完成までに「五十年」を要しても決して不思議ではないのだが、ジュセリノは就任後きっちり「五年」の歳月で公約を果たした。
通常の「十倍速」で国を引っ張った大物らしく、朝飯からステーキを食べる健啖家で鳴らした。ミナス料理ではフランゴ・コン・キアボ・イ・アングー(鶏肉とオクラ、トウモロコシの練り物の煮込み)を好み、「シッコ・アングー」と呼び親しんでいた。残念ながらその由来は分からない。ただ、ミナス人がシッコと言えば、ヴェリョ・シッコ、サンフランシスコ河を指す場合が多いだろうし、私もそれを想起する。
というのはかねてより、流域を旅してみたいと考えているからだ。運航停止していたベンジャミン・ギマランエス号が昨年八月、二年半ぶりに復活したとの新聞記事を読んで以来、夢想は汽笛の響きを伴って切実さを増している。一九一三年のアメリカ・ミシシッピ河で誕生した十三年後、ブラジルに来たベンジャミン号は、ピラポーラ~ペトロリーナ千三百七十一キロを往くのに水量が多いときで七日、帰りに十一日を要した。時速は九~十五キロだった。記事によると、船は文化財に指定され、ピラポーラ~サンフランシスコ二百五十二キロの旅を観光客に提供しているという。
時速百キロ以上の乗り物の旅には、ほとんど旅情を感じない。旅情はスピードに反比例すると思っている。飛行機の旅など、鉄の塊が空を飛ぶ仕掛けがいまだに解せない私にとっては恐怖でしかない。
飛行機を「発明」したサントス・ヅモンは一九三二年、グアルジャー海岸のホテルの一室で自殺する。持病の進行のせいもあったが、爆弾を落とす大量殺戮「兵器」として自分の産物が頻用されている現実を、深く悲しんでいたためとも伝えられる。ヅモンの自殺以降、飛行機での旅行を楽しむのは「野蛮」である――。私はうそぶいて、知人の憫笑を誘っている。
ミナスには、蒸気機関車マリア・フマサも走っている。サンジョアンデルレイ~チラデンテスを結ぶ十キロ間で、ベンジャミン号でいいのだが、運転手をおだてて、カマタキというやつを一度やってみたいと思っている。薪をたいて走る船や汽車に乗り、むかしに変わらないのどかな風景を眺め、土地の人々と会話を交わし、読書をして、あくびが出たらうたた寝する。私が理想とする旅だ。
ミナス料理の歴史も、薪と関係が深い。フォゴン・ア・レンニャ(薪かまど)でのんびり作る。特産のペドラ・デ・サボン(石鹸石)などの鍋でぐつぐつと煮込まれる料理が多い。煮込まれるのはブラジル五百年の「歴史」である。十八世紀のゴールドラッシュをきっかけに集まったポルトガル人開拓者、アフリカ系奴隷、原住民インディオ、さらには全国津々浦々からの転住者、そのすべての料理文化が織り成されミナス料理の今日が形成された。
ラバを率いて旅を続けたトロペイロたちの野営生活で必然的に生まれた料理と、移動開拓から農耕定住へと転じる中で育まれた料理の二つにも大別できる。前者にフェイジョン・トロペイロがある。マンジョッカの粉、コウベやベーコンと煮豆を合わせ、揚げた豚皮、豚肉ステーキと一緒に食べたりする。対して、肉豆料理だけではなく、菜園で栽培する野菜果物の付け合せもふんだんに取り入れ、新鮮な食材を活かしている本格派が後者だろう。
一般にその料理は「重たい」イメージが強いが、ミナス料理の代名詞的存在ドナ・ルシニャは「胃にもたれるようなのは出来そこない」と口癖のように語っている。でなければ、ミナス人の習慣である二回のおやつを含む「一日五回の食事」は難しいはずだ。クビチェク元大統領は朝からビフテキでも、昼飯にはミナス料理をたいらげた。十八世紀とほとんどかわらない姿を保つ歴史遺産の街に生まれた男が、伝統に安住することなしに「近代化」を推進、未曾有の首都まで建設してしまう、そのエネルギーの源は、「一日五食」「朝飯にビフテキ」という旺盛な食欲であった。
◎
今年も八月にチランデンテスで恒例の国際グルメフェスティヴァルが開催される。十五~二十四日までの十日間。ミナス料理はもちろん、アメリカからは日本人コック、スペインからはバスク料理の一線級シェフが参加する。カシャッサ、葉巻の試飲会、料理講習会など関連イベントも多数。近年瀟洒なレストランが立ち並び注目を集めるチラデンテス。歴史散策だけではなく、幅広い料理文化も楽しみたい人ならこの機会は逃せない。