グルメクラブ
7月8日(金)
三十年のブラジル生活に区切りをつけ、「引き揚げ」を決意した団塊世代の移住者と食事した。
「こないださ。尾羽うち枯らして帰るのか、って友人に言われちゃったよ」
団塊は、薄くなった頭髪をかきながら言った。
オハウチカラス。私は心の中で復唱してみた。ひと刷毛の疲れがはかれた団塊の顔を見て、当らずとも遠からずだろうと思った。
五十六歳の彼の趣味は、ダンスだ。日系女性たちの洋舞グループに「黒一点」交じって、アマチュア芸能祭に出演したこともある。
「周りが女性だらけだと、苦労も絶えなかったでしょう。仲間はずれとか」
「ま、連帯を求めて孤立を恐れず、の気持ちを貫き通したよ」
われわれは、高級飲食店が集まるイタイン・ビビ区の、話題のレストラン・バー「ウニベルシダーデ・デ・カシャッサ」にいた。白色で統一された現代的風情の空間。四百種を数えるカシャッサが壁に並び、アクセントになっている。
オーナーのセルジオ・アルノーはイタリア系二世。ほか四軒のレストランをサンパウロ市内に経営する。二〇〇〇年の頃からだろうか。ブラジル再発見の機運が高まった。その好機を見逃さず、オリジナルブランドのコーヒーとカシャッサをプロデュースし、ブラジルの郷土料理をつまみに地酒カシャッサを飲ませるこの、ウニベルシダーデ―まで開業した、業務拡張ぶりには脱帽させられる。
「お土産はどんなの選びました?」と私は訊いた。
ブラジル国旗。サッカー代表のユニフォーム。プロポリス。団塊は指を折りつつ挙げた。昨日来たばかりの旅行者のようだ。旅行ガイド「地球の歩き方」でも参考にしながら買い物したのだろうか、まさか。
「日本でな、ブラジル代表のユニフォームを着てコーヒーの訪問販売をやろうかと。団地の奥さま相手の営業だな、基本は」
「無理っすよ。毒入りかも、と怪しまれますって。ヒ素入りカレー事件とかあったの知りません?」
団塊世代は、エネルギッシュだ。何でも見てやろう、何でもやってやろうという時代の垢がいまだ落ちていない。私の忠告を無視して挑戦するのだろう、きっと。
力が及ばずに倒れることはあっても、力を尽くさずに挫折することはない……か。―ああ、団塊。
前菜だけでもマンジョッカフライからタコのパプリカ風味まで、十品以上揃っている。中でも彼はアリェイラが気になった。ポルトガルのソーセージである。揚げると中身がほろほろ崩れ出てくるのがうまい。理屈っぽい団塊は、ほかのソーセージと何が違うのか、論評し始めた。私の方は食べることに熱心だった。
われわれはついで、安酒場にあるような鶏のコラソン(ハツ)をベーコンとタマネギで炒めた料理を頼んだ。しかしサンパウロ市の青山あるいは銀座たる、イタイン・ビビ区で横丁気分とは新鮮だ。
メニューに「プラットス・ド・ブラジル」の欄があった。ピカジーニョあり、レイトォンやフェイジョアーダ、ムケッカもあり。どれも結構な値段だ。「ちょっとトイレへ」と、団塊は立ち上がった。すぐ戻ってきた。財布の中身を確認したかったのだろう。
「この、『ピカーニャとカラー(ヤムイモ)のピューレ』にしませんか」
カラーは、ブラジル料理ルネッサンスの旗手アレックス・アタラも多用する。九~十六日まで彼はパリの一流ホテルで臨時シェフを務めるが、そのピューレもきっと登場するはずだ。
団塊は「パリ」に興味を示した。「実はな。俺が日本で売るコーヒーさ。パリの老舗デパート、ラファイエでも扱われた商品なんだ。売り文句はパリよ」
ブラジルから離れると決まった瞬間から、と団塊は続けた。「この国にはぜーんぜん興味なし。フランスだよな、やっぱりよ。憧れの花の都。若ければねえ、再移住したいもんだ」
可能ならば人生の最後に青春を配したい、と言ったのはアナトール・フランスだった。週二回の水泳とダンスのレッスンを欠かさず、「俺の肉体はまだ三十代」と言いながらも、老いを確実に意識しているその心中は複雑なようだ。
海でのすもぐりを愛し、大学で水産を学んだ団塊は、最後にムール貝を食べておきたい、と言い、アロイス・コン・マリスコ(ムール貝のリゾット)を勝手に注文した。まあいい、きょうはあなたの日だ、と私はうなずいた。そのリゾットがきた。ニンニク風味と貝の歯ごたえがニクイくらい絶妙だったが。
「これ、俺の人生では二番目だな。名前が思い出せないんだが、サンヴィセンテ市内に最高のムール貝料理を出すレストランがあるんだよなー。一番は、おぼろげな記憶の中にある」
団塊の帰国後、そのレストランが判明した。「ボア・ヴィスタ」だろう。まず間違いない。店のコックは一九七五年から働いている人で、健在らしい。三十年前か―。団塊がブラジルに来た年と一緒だ。遠くに去る者がいて、一つ場所にとどまる者がいる。
団塊様。次の夏にでも赴いて貴方の分までしっかり食べておきます。
◎
ウニベルシダーデ・デ・カシャッサ(イアイアー街83、電話11・3167・0461)/ボア・ヴィスタ(オンゼ・デ・ジュニョ街140、電話13・3468・3062)