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ブラジル料理雑記―5―リオデジャネイロ(中)

グルメクラブ

2005年7月22日(金)

 飲食店で大人が牛乳を頼まなくなったのはいつからか。今日、牛乳を飲む大人の姿を街中で見かけることはほとんどないと言っていい。
 だから、七年前、映画監督の鈴木清順さんがサンパウロ市パティオ・デ・コレジオ内のカフェで「冷えた牛乳が飲みたい」と言ったときは、えっと訊き返した。
 一九二三年東京日本橋生まれ。『けんかえれじい』や、『ツィゴイネルワイゼン』あるいは『陽炎座』の鮮烈で前衛的な映像美で知られる、サンパウロ国際映画祭に特別招待された監督の、退屈しのぎの相手役に私が起用されていた。
 セントロを一緒に散歩し、カフェで休んだ。「もう死ぬんだから、金持ちの豪華な世界以外は、体験したくないのです」とらしいことを言いながらも、牛乳を飲んでいる姿は、フツーのおじいちゃんに見えた。
 監督の来伯と前後して、市立劇場(ラモス・デ・アゼヴェド広場)の正面シャヴィエル・デ・トレド街のレイテリア・アメリカーナが消えた。サンパウロの旧市街で、私が知る限り最後のレイテリア(乳製品を置いている喫茶店)だった。
 牛乳はスーパーで買って家で飲むという習慣が世間に定着して以来、外であえて注文する人はめったにいない。店側も、品書きにわざわざ記るすようなことはしない。看板メニューが文字通り牛乳であるレイテリアはそうした風潮の中、経営が立ち行かなくなった。
 リオデジャネイロ市の中心、リオ・ブランコ通りとアゼヴェド・リマ街を結ぶアジュダ街35にはいまもレイテリア・ミネイラ(創業一九〇七年)がある。先日店の前を通りがかった。
 あいにく定休日だったので、ガラス窓に貼られているメニューをうらめしく眺めた。牛乳は三百ミリリットルと五百ミリリットルの二種あり、水についで安い。アヴェイア(オート麦)やマイゼナ(コーンスターチ)のミンガウ(粥)、そしてコアリャーダ(ヨーグルトの一種)、ミナスチーズと各種フルーツの盛り合わせ。ペトローポリスのバタートースト、カツピリチーズのホットサンドなんかもある。
 どれもおいしいものなのに、どうしてレイテリアから客足が遠のいたのか。牛乳が一般家庭に普及した事情がまず背景にはあるのだろうとは先に記した。あまつさえ、公衆の面前で牛乳を飲んでヒゲや口まわりがうっすら汚れてしまっては恥ずかしいと認識され始めたことが下火になった第二の理由だと、私はひそかににらんでいる。
 リオのセントロから帽子をかぶった紳士淑女が消え、馬車や路面電車ももはやない。ほかになにがなくなったかと考えたとき、かつて芸術家らボヘミアンが集ったカフェやバーが姿を消しているなと気づいた。
 詩人カルロス・ヅルモンド・デ・アンドラーデが描いた、一九二〇年代のリオ・ブランコ通り界隈の情景、その「ボヘミア」には「バール・ナショナルで、バール・ド・パラセで、ブラマで、ラマスで、アメリカーナで、レストラン・レイスで、リアシュエロ街の口に出すのも恥ずかしい場所で、詩人はボヘミアな気分に励み……」とある。
 ここで挙げられている店はすべて現存しない。当時リオ・ブランコ通りにはリセウ・デ・アルテ・オフィシーナ、ホテル・パラセ、ホテル・アヴェニーダ、トリトン劇場、フェニックス劇場が集中的に立ち並んだ。どれもいまはない建物だ。周辺に並木の数ほどあったカフェやバーは近代を謳歌する人々でにぎわったが、こちらも時代の波間に消え入り、名残はない。
 一九〇五年十一月、リオは刷新される。二十七カ月と七日かけて開通したセントラル(現リオ・ブランコ)通りの落成にあわせ、約三十のビルが完成し、建設中のそれは九十を数えた。第一回日本人移民が来た一九〇八年に、最初のエレベーターが設置された。外交官の父・九萬一のブラジル赴任(一九一八)に同伴してきた堀口大學が逍遥した頃の通りには、乗合バスが走っていた。都市計画のモデルはパリだった。
 なのに、五一年にパラセ・ホテルを、五七年にはアヴェニーダ・ホテルを壊した。跡地にガラス張りの高層ビルを築き、周辺も伴って現代風情の建築に取って代わった。絶え間ない更新への乾きは新世界の都市の特徴だが、パリに二〇年代のカフェが残って、リオに残っていないのもそのせいかもしれない。
 〈ああ、懐かしい/ああ、懐かしいのさ〉で始まる『カフェ・ニース』は、ブラジル音楽史の記念碑である。シッコ・アウヴェスはキャデラック車で現われた。イズマエル・シウヴァや、ジョアン・デ・バーロ、ラマルティーネ、ピシンギーニャ、アウミランテ、ノエル・ローザは黎明まで演奏し、まだ腹の出てない頃のドリヴァル・カイミがバイーアらしさを見せつけていた。と続き、さらに、アリィ・バローゾ、ドンガ、カルトーラで計十一人のサンビスタらの名前を列挙しながら、彼らのカフェでの振る舞いを歌っている。その舞台になった伝説的カフェ・ニースもリオ・ブランコ通りにあったが、保存されなかった。
 パリの二〇年代といえば、国内外の芸術家が集ったモンパルナスに四つの有名なカフェがあった。いずれの営業も続いており、店内に当時の画家の写真や作品を飾る店もある。リオの場合は、画家や詩人よりもやはり音楽家の存在感が大きいだろうから、青春期のブラジル音楽が偲ばれるカフェ・ニースが残っていれば、と惜しまれる。
 ところで二〇年代モンパルナスの主人公のひとり、藤田嗣治は一九三一年、リオのパラセ・ホテルで個展を開いている。日系社会で「娘三コント」「五コントで首吊った」と俗に言われていた頃だが、一枚五コント程度で販売されたらしい。パリ画壇の寵児・藤田は、リオの文化人に熱狂的な歓迎で迎えられた。
 ブラジル人画家のカンジド・ポルチナーリが世話した。その時代、インテリ、政治家から娼婦まで雑多な職業の人が往来し、猥雑なパワーで溢れたことから「リオのモンパルナス」と称されたラパ区にアトリエを構えていた。藤田も宿泊している。そのアパートは、サーラ・セシーリア・メイレイレスの裏手に位置し、今日も建っている。玄関口の脇には、二人の関係についての簡単な記し書き(プレート)が掛かる。
 建物地階にあるポルトガルの酒と料理を出す店は当時から営業しているはずだ。また、付近には一九二六年創業のレストラン・コスモポリタがある。分厚いステーキ上に揚げたニンニクを散らし、ファロファと丸型のポテトチップスを添えたフィレ・オズワルド・アラニャが誕生した店だ。藤田の絵に描かれる、あの乳白色の肌をしたおちょぼ口の女性には食べることへの意欲を感じさせないが、血の滴るここのレアステーキを、藤田作品の白人女性を想像しながら食べると官能的な妙味が沸いてくる。
 ラパ区の深夜は、深い緑色のブロッコリーライスが名物のレストランで締めくくる。朝五時まで閉店しないノヴァ・カペラ。焼いた子ヤギの肉料理と一緒に頂くのが定番だ。これを夜明けに胃袋に収めた私は、港町特有のきらめく朝日を背に受け流しながら歩いて、レイテリア・ミネイラで牛乳を飲んでから寝る。以前ならば最後まで生ビールを貫いたが、最近はこれでも健康体になろうと精一杯の努力もしているのだ。

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