グルメクラブ
2005年10月14日(金)
二〇〇四―五年はうどんの年だった。
昨年末に盲腸、今年に入って胃を患い、胃腸のリハビリのため、うどんの日々が続いた。
腰を痛めて起き上がれなくなったこともあった。気持ちまで弱ってしまって、やはり、うどんの世話になった。
つらい。寂しい。悲しい。何か気持ちが満たされない。そんなときはうどんをすすりたくなる。日本人であるとしみじみ思う。
ところで、一九二六年に旧日本人居住地コンデ・デ・サルゼーダス街に誕生した簡易食堂の名は「うどんや」といった。
経営者の名前や地名ではなく、「うどん」が店名に選ばれたのはなぜか。
当時の移民たちにとって、うどんこそ祖国の料理の代表だったからだろう。ずるずると食べれば、胃袋も郷愁も満たされた。
麺食文化を持つ仲間にイタリア人がいる。彼らにとってのうどんはスパゲティーだ。原料はデュラム・セモリナという派手な名の黄金色の小麦である。食べ物にもしっかり国民性が現われているなと思う。 うどんの乳白色にはどこか薄幸な印象が否めない。陽気で快楽主義的なイタリア人にはやっぱりうどんは似合わない。
ただ、うどんもスパゲティーも、具の選択肢が広いのは一緒である。
天ぷらうどん、月見うどん、たぬきうどん、カレーうどん、山菜うどん……。これに対して、スパゲティー・ボロネーズ、スパゲティー・バジリコ、スパゲティー・カルボナーラ、スパゲティー・あさりトマトソース、ニンニク・スパゲティー……。
種類に富んでいるのは、いずれの麺も食生活に密着している証しだと思う。飽かないよう工夫に余念がない。「ゆりかごから墓場まで」食べるのだから。
先日、旧ヒルトン・ホテル裏エピターシオ・ペソア街85のリストランテ・カルリーノで食事した。
正午になる前だった。居合わせた客はわたし以外にひとり。背広をきっちり着こなした老人紳士だった。フォークを口元に運ぶ怠慢な動きから察するに、齢八十を過ぎていただろう。
粉チーズを振り掛ける→混ぜる→フォークに麺を絡める→口元に運ぶ→かむ、までの時間に軽く二十秒を要していた。さて、のどがゴクリと動くのかと思ったら、ゴーーークーーリーーーという感じで消化系統の流れが滞っている。
じっくり味わっているのか目を閉じる。沈黙。のどに麺を詰まらせて、あの世に逝っちまったんじゃないか。と思った瞬間、まぶたが開き、わたしは胸をなでおろす。スパゲティーをすすりながら死んでも本望だと全身で語っているようで、深い感動を覚えた。
その後続々と入ってきたお客も、かつてボルサリーノをかぶってサンパウロを闊歩しただろう世代が多かった。
山盛りのトマトスパゲティーなどを注文し、赤いナプキンを胸元に装備、例の通りの緩慢な動きでたっぷり二時間の昼食を楽しんで帰るのだった。
同店がサンジョアン通りで営業を開始したのは一八八一年。将来大富豪になるイタリア人フランシスコ・マタラッゾがブラジルに移り住んだ年にあたる。
後年ヴィエイラ・デ・カルヴァリョ街に移転し繁栄したが、二〇〇二年に店じまい。今年に入って現在の新天地で復活オープンするまで休業していた。
その「空白の三年」がなければ、文句なしにサンパウロ市最古のレストランだった。しかし、一九〇七年から連続営業を続けている、ベラ・ヴィスタ区コンセリェイロ・カロン街416のイタリア料理店カプアーノを「最古」とする向きが少なくない。
それにしても、どうして老舗にはイタリア系が目立つのだろう。
レストラン業界の「王者」ファザーノ・グループにしても、元を辿れば、開祖はイタリア移民。一九〇二年開業のブラッセリー・パウリスタがスタート地点だ。
逆に、日系のレストランが二、三代と続かないのはなぜか。
サンパウロ市の日本料理屋で五十年以上続いているのとなると、わたしの知る限り、一軒しかない。
それはカンタレイラ街の市営市場そばで始まった。一時ガルボン・ブエノ街にあった。いまは、グロリア街103のフードセンター2階で営業している。中村うどんだ。
すしが最高とか、ラーメン大好きとか。なんだかんだいっても、日本人はうどんだ。それを中村の存在が証明している。
◎
カルリーノの先代はトスカーナ州ルッカ生まれの人だった。現店主が購入して引き継いだのは一九七八年から。ルッカは内陸だが、店のスパゲッティー十二種類の半分は魚貝系。海産物のフライ、子羊の太もも肉の料理、フィレンツェ風ステーキ、キノコのリゾットなどもある。電話11・3258・5055。