グルメクラブ
2005年10月28日(金)
ついこなひだ、所用があって、と云ひたい所だが、用事はなかつたけれど、映画館へ行って来た。映画を観ない者は映画館に入れないとは云はない様だから、澄ましてロビーの椅子に座っていた。なんて書くと内田百閒の随筆のようだ。
用事はなくても、映画館の空気が好きだから、訪ねたのである。汽車に乗る気は全くないが、駅の構内で過ごす。別に買い物もないけど、デパートの中をブラブラする。そういったのと一緒だ。
いまどきの映画館は喫茶店や書店を併設している。ロビーには自由に出入りできる。急のときはトイレにも駆け込める。ポップコーンを食べに行ってもいい。屋台より衛生的だ。
おやつどき、映画館の近くにいたら、立ち寄ってポップコーンとコカコーラ。そんなことがこれまでの人生に何十回もあった。
「ポップコーン映画」という言葉がある。筋書きのややこしくない娯楽作を指したりするのだが、実際はどうだろう。ポップコーンはB級/名画を問わない「映画の友」じゃないか。
湿ったお化け屋敷のような老舗。デパートの中の最新映画館。芸術系シアター。それぞれ上映作の傾向はずいぶん違うが、ポップコーンはそういった要素には左右されず、いずれの場所でも売られている。
十九世紀末のアメリカでポップコーン炒器が発明され、馬や車の上にそれを載せて移動しながら売られていたものが、映画館の中で販売されだしたのは一九三〇年代といわれる。以来、映画鑑賞に最適なスナックの一番手として不動の位置にあるのは訳がある。
食べている音があまりしない▽色が白いから薄明でも目立つ▽無臭に近い▽軽い▽無造作につかみやすいうえ、汚れない▽お腹が膨れない▽薄味なせいもありやめられない、とまらないーーなどである。
ここで注目されるべき点は何か。色が白いということではないか。無臭・軽量であるなら、木の実でもいい。あれだってつかみやすいし、手も汚れない。問題は色だ。白いのもあるが、一般に有色。それに、お腹にたまりやすいのが難だ。
だから、映画館ではポップコーンが定番になる。闇の中で食べられる機会の方が多いなんて食べ物を、わたしはほかに知らない。
はたしてポップコーンは幸か不幸か。どう思っているのだろう。しょせん映画という刺し身のツマであり、映画がそこにいなければ大根であることを。
それは、しけた飲み屋の酒のつまみとしてもしばしば出てくる。女、子供が映画館で食べるようなものを出すな。とバーのママに向かって、ポップコーンを投げつけて半ば本気で怒る短気な中年を見かけたことがある。わたしの叔父だ。
叔父に教えねばならない。実はポップコーンは食物繊維や鉄分、ビタミンA、Bに富むのだと。ビタミンBは酒の糖質を分解しエネルギーに変化させ、さらには、筋肉疲労を除去し、精神を安定させる働きまであるらしい。
人は暗がりでは不安になりがちだ。ポップコーンは本当に精神安定剤の役割を果たしているのか。なら、ホラー映画鑑賞者のポップコーン消費率は平均より高いのか。興味深い。
暗い場所の食事情といえば、日本には闇鍋がある。前出の内田百閒は仲間らと闇の中で鍋を食べながら、空襲で行方不明になった女学生を偲び、その位牌をバリバリ折って、ぐつぐつ煮込んで食べた。そう「長春香」に書いている。
欧米にある「暗闇レストラン」も面白そうだ。フランスやドイツ、そしてオーストラリア、アメリカなどで近年話題を呼んでいる。
ブラジルでも九月にリオデジャネイロで試験営業。五日間限定で、会場はガーヴェア区にある競馬場内のレストランが使用された。
一切光が差し込まない真っ暗闇の空間での食事。だれがサービスを担当するのか。視覚障害者の給仕たちである。
こうしたレストランの存在は彼らの雇用を創出する一方、健常者の客が視覚障害者の現実を実感できる貴重な機会にもなっている。コース料理が一般的で、リオではひとり七十レアルだった。
いわゆる「目で楽しむ」要素は失われるが、視覚が奪われる分、味覚は増幅するという。アルコールは回るのが早いらしい。
ちょいと無礼な振る舞いをしたって見えやしない。ナイフ、フォークはさっさと投げ捨て、手づかみで食べるのが楽だろう。温度や感触。触覚を通じて伝わる味を一緒に楽しめる。
テーブルマナーに無知。好物は映画館のポップコーンという味盲だ。そんなわたしでも、マナー不要のうえ、味覚が研ぎ澄まされる「暗闇レストラン」なら、一人前のグルメ男だ。
ベストはホットドッグなら一分で二個。ま、たいした記録ではないが、早食いの癖もある。だから、そんなレストランが近所に出来たらうれしい。たまには目を閉じて、全身全霊で料理の味とじっくり向かい合ってみたいと思っている。