グルメクラブ
12月12日(金)
「今から二十余年前の六月の或る夜、ライト会社の前にあったレストラン『ハイデルベルヒ』で友人と一緒に『豚の肢の丸煮』を食べながらショップを一杯飲んだ」(佐藤常蔵「ブラジルの風味」」九五七年)
ときは一九三〇年代半ばであろうか。
コロニアは文化胎動の時期。日系美術家による聖美会結成(一九三五)、サンパウロ総領事公邸での日本美術紹介の夕べ(一九三六)と、ようやく文化面でもブラジル社会にその一歩を踏み出そうとしていた。
外国移民・文化への統制を強めたヴァルガス独裁政権樹立(一九三七)の前夜に当たる。
西欧からのモダン文化の波はそれを知らず次から次へとサンパウロに打ち寄せてはしぶきを上げている。
ライト会社=電力公社=はお茶の水橋をはさんで壮麗なサンパウロ市立劇場の斜め向かいにある。そのレストランを一歩出れば旧市街の雑踏が広がっている。流行の外套を着込んだ紳士淑女の華やかな姿、路面電車のレール音、そして、冬入りの街を包む夜霧……。
佐藤さんが当時、盛り場の一軒で味わったと回想する料理は、ドイツ語でアイスバイン(Eisbein)と呼ばれる品―。
長時間煮込まれた肢(バイン)から溶け出したゼラチンが冷え固まり、氷(アイス)のようにみえるため、かくの如く称すようになった、そうだ。
「偉大な詩人でなくても眠っていた詩心をかきたてる街」。ゲーテゆかりの古都ハイデルベルヒ(ク)の名を冠したレストランは往時の名店だったのだろう。
そこでひっかけるショップ(生ビール)は市立劇場での公演前の軽いアペリティフ―。お目当ての演目がドイツの古典音楽であればなお良し、となる。
モボ・モガたちは劇場のじゅうたんを踏む前に、まず「ハイデルベルヒ」へと向かい、前座の一杯を楽しんでいたのかもしれない。もちろんそんなときには観劇後のアイスバインも忘れてはいなかった。
今日、この芸当をやろうと思えば、劇場から徒歩で十分ほど離れたアウロラ街一〇〇に「レオ」(電話221・0247)がある。サンパウロ一の生ビールを飲ませる。だが、営業時間は午後八時まで、アイスバインの提供は水曜日昼のみに限定されている。
といってもがっかりする必要はない。
「レオ」ではタルタルステーキが同店の生ビールの泡に匹敵する評判である。
もともとはモンゴルの遊牧民タタール族にそのルーツがある。ユーラシア大陸を支配したモンゴル帝国の形成過程のなかで東は朝鮮半島に伝わりユッケとなり、西はドイツの食文化に取り入れられることになった料理として知られる。ハンブルクではこれを焼きハンバーグ(ハンブルク風)と呼んだ。
生牛肉を塩、胡椒、タマネギ、卵黄などで味付けては練るのが一般的。「レオ」ではライ麦パンの上にこぼれんばかりに載ってくる。
創業一九四〇年。食後、身をゆだねる古典音楽にもひけをとらない前菜と生ビールを旧市街に求めるならば、やはり、ここしかなかろう。
さて、観劇の時間は過ぎ去り、胃袋はすっかりからっぽ。身体の奥にはしかしモーツァルトの響きが残るときなどはどうするか。 劇場最寄りのセントロではアマラウ・グルゲル街一六五の「アミーゴ・レアル」(電話223・6873)がある。
「レオ」の創業者でドイツ移民レオポルド・ウルバンが、「レオ」を売り払った後の一九六七年に開店。こちらは平日午前一時まで営業している。基本は「レオ」を踏襲するもアイスバインは毎夜注文可能だ。
話を一九三〇年代半ばのサンパウロ市に戻せば、日、独ともに移民の数が急増した時代に相当する。二〇年代から四〇年代にかけてはイタリア、ポルトガル、スペインをはるかにしのぐ増加率を示している。 一九四〇年の統計ではドイツ系二万、日系九千がサンパウロ市に住んでいる。
第二次大戦の足音がすぐそばに迫っていた両国。防共協定は一九三六年に成立し、同盟調印までもあとわずかである。そんな最中、コロニアの知識人はドイツへの親近感を強めている。
佐藤さんをして、「ハイデルベルヒ」詣でさせたのはまた、時代の気分でもあったか。