グルメクラブ
2月6日(金)
とある見知らぬ地方で日本料理店の暖簾(のれん)をくぐる。 構えは数奇屋風にして味は界隈一、創業百年の老舗と聞いてきた。なにやら評判の名物があるそうだ。 「お客様もやっぱりアレをご注文なさいますか」、店の者が慇懃(いんぎん)にいう。こなれた口調だ。 なじみの客のごとく、「ああ、きょうもアレでいい」と答える。 アレが来た。それはどうみても、うどん、ではなく、スパゲッティである。 平静を装い店の者の表情をちらりうかがってみる。屈託のない笑顔がある。 「ハイカラだった先代がイタリアで会得した味です。余興で始めたのですがいまじゃ、こちらの方が有名になりまして……。お客さんもテレビか何かをみてやってこられたんでしょ」 とは架空の話だが、ブラジルにこれとよく似た実話がある。 「Bar do alemao」はサンパウロ市から車で二時間、イツー市街の中心にあり、百年以上の歴史を誇ることで知られる。ドイツ移民の創業者から数えて三代続く。 外から見ても内から見てもまぎれない、本格的なドイツ家屋造りで、店員といえば、いかにも森の木こりのような格好をしている。 前述の調子をもって、「アレをひとつ頂きたいのだが……」と伝えてみる。そこで木こりが相好崩して持ってくる一品はさて何か。「File a parmegiana」である。 創始はパン屋で菓子屋だった。それがバーとなり、サンパウロの内陸地方で最も早く生ビールを提供した店として名が広まる。 「File a parmegiana」が名物となるのは、五〇年代から。先代がサンパウロ見聞の際、イタリア料理店で食したのをきっかけにメニューに取り入れたそうである。 イツー市は巨大な電話ボックスや交通信号機などが設置され観光名所となっているが、ここのパルメジャーナのフィレ肉も巨人の草鞋(わらじ)にみえる。 アイルトン・セナ、マルオ・コーヴァス、ラウル・コルテスといった著名人も味わった。今日、客の五割がこれを注文する。名物に旨い物なし、とはだれがいった。文句なしに旨い。 といって、ドイツ料理が劣るわけでは決してない。料理名をわざわざドイツ語で併記してあるくらいである。なし崩し的に他国の料理を名物にしてしまったような店でないことは、例えば、主菜の付け合せなど細部への気遣いによく現れている。 キャベツの酢漬け(Sauerkraut)、塩茹ジャガイモあるいはマッシュポテト、グリーンピースのピューレ等々は、ドイツのメインディッシュには欠かせない伴侶である。そのご機嫌一つで主人の風味も変わってくる。この店ではそんな地味な食材の伴侶に対しても丁寧な調理を施している。 「kassler」(豚骨付ロース肉の塩漬・燻製)のつまに、カブを摩り下ろしたようなものが運ばれてきた。味はわさびのようでもある。「植物の根」と、木こりは大雑把な説明するが、西洋ワサビであろう。これなども他店ではまれにしか遭遇しない気遣いの薬味である。 キャベツの酢漬けに明らかなように、軽い酸味を好むのはドイツ人の嗜好の特徴であり、その酸味をいかに演出するか、がドイツ料理のひとつの個性であるような気がした。 サンパウロ市から車で小一時間ほどのエンブー市にある「o garimpo」の話は別種の感興を呼ぶ。 植民地時代の邸宅を改造したレストランで表看板にはドイツ語で「ビアガーデン」とある。経営者は移民である。前菜主菜問わず、結構なドイツ料理の品揃えである。 しかし店の名物は、「バイーア風ムケッカ」である。客の五割とまではいかないが、多数がこれを注文している。店主夫人がバイーア出身のムラッタであるという。なるほど、と思う。が、ドイツ料理のお薦めはないものか。品書きに手書きで、「鱒のサワークリームソース」とあった。 シューベルトが「鱒」を作曲したことでも分かるように、ドイツの魚料理といえばその魚である。食べ方としては燻製にしたり、小麦粉をつけたバターで焼いたりする。 やはりドイツの甘物を代表する「Apfestrudel」(アップルパイ)をデザートに注文した。薄めのパイ生地にぎっしりリンゴが詰まる。加えてアイスクリームが添えられてくるあたりも、本場仕込みである。 ビアガーデン、コロニアル風サロンと、幾つかのフロアがあるなかに、グーラフ・ツェッペリン・バーと名乗る空間があった。 面白い。ドイツの航空会社ルフトハンザはブラジルに初めて乗り入れた外資系。その歴史を飾る飛行船こそがグーラフ・ツェッペリン号。フランクフルトーレシーフェを結び、ベルリン―リオを結んだ。三〇年代の話である。 冬の長く厳しいドイツではその間、太陽を求めて南下、イタリアに出る人が相次ぐ。イタリアのつま先にはアフリカがある。ドイツ移民がブラジルで、イタリアとアフリカにある種の憧れを抱き、結体するのも取り立てて不思議な事ではない。ここに紹介した二つの老舗が示す通りである。 バーの壁には、グーラフ号の絵と次の言葉があった。「ベルリンーリオ三日間」―。 当時わずか七十二時間で行けた南の楽園ブラジルを、数多のドイツ人が夢見たのだ、との思いがしみた。