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サンパウロ お国自慢料理=台湾担仔麺の思い出=「麗し国」に歴史はつもる

グルメクラブ

2月20日(金)

 三、四年前のひと頃、懐は寂しいが、ラーメンを食べたいと願う日本人が随分世話になった店があった。
 台湾人一家の経営していた大衆食堂で、リベルダーデ区コンセリェイロ・フルタード街のセー広場寄りに軒を構えていた。
 気立てのいい三姉妹が注文を取っていて、われわれの顔をみると、すぐさま「担仔麺ね」と、応じてくれたのが懐かしい。
 タンツーミェンと読むこのラーメンはとりわけ台南の名物と聞くが、台湾を代表する「小吃」(街角の店や屋台で出す日常料理)らしく値段も庶民的。当時一杯が二レアル半ほどであったと記憶している。
 透き通ったスープは見た目とは裏腹に、鶏ガラ風味がしっかり効いており、麺の上には酒・醤油で炒めた豚挽き肉、ネギ、モヤシ、ゆでた鶏卵がのってきた。
 なかでも忘れられないのが、醤油色したゆで卵の味でさすがは「鉄蛋」(※)を生んだ国の民がなせる技と、うなったものである。
 評判は口コミで広まり、いつからか文協職員の顔までみかけるようになった。そのうち日本人客の姿が別段珍しくなくなると、三レアルに値上げされたが、それでも三姉妹の店は変わらず繁盛していたので、じきに店じまいするとは、想像できずにいた。
 ある土曜日の午後、空は一点の曇りなき紺碧だったと印象される。いつも以上に軽い財布と、二日酔いの胃袋を抱えて店に着くと、シャッターが堅く閉じられていた。
 閉店を告げる張り紙が目に入った。肩落としその場を立ち去ったが、後日、三姉妹の父親つまり店主が白昼の営業中、狙撃殺害されたと知って言葉を失った。
 爾来、リベルダーデ区には中華料理店が相次いで新規開業したが、もっぱら経営者は大陸の中国人で、台湾の「小吃」らしき料理はメニューになく、店内には大きな円卓が幅を利かせているため、ひとり席に腰掛け「担仔麺」を食すという機会にはついぞ恵まれないこととなった。
 タンツーミェンの味も香りも忘れかけつつあった最近、「生まれは昭和五年なんですよ」と、よどみない日本語を話す初老の台湾人男性と言葉を交わした。
 文協近くで長年パン屋を営む氏は高雄の出身、齢四十にしてブラジルに移住、二十三年が経つという。
 夫人は台北育ち。二人は台湾料理の話題が出ると、本格的なレストランは知らないが、エスツダンテス通りに「小吃」を数品揃える店がある、と教えてくれた。
 「ビーフン(米麺)を使ったラーメンを試してみてはどうですか。台湾らしい一品です」
 さっそく店に赴き、言われた通りの品を店員に説明、ついで「家郷乃味」とあった「肉圓」「肉粽」を頼み待った。台湾でよく食べられる魚や肉団子のスープにも興味があったが、汁物はすでに決めているので次回に譲ろうと考えた。
 じきに来たビーフン・スープは思いもよらないことに、あのタンツーミェンそのもので、麺がビーフンであるという以外の違いはなかった。黙してすすれば、在りし日の「担仔麺」と、三姉妹の面影がしのばれた。
 約直径十センチの圓(まる)型、蒸した餅のごとき食感に味わいがあったのが「肉圓」である。バーワンといい、国民的軽食と目されるそうだ。そのゼラチン質の丸い物体の中には小キューブ状の豚肉とタケノコが詰まっていた。
 日本では端午の節句に食べられる粽(ちまき)は、バーワン同様、甘辛いタレがかかっていた。また、どちらにもシャンツァイ(香菜)の細切れがふりかけられてあるあたり、南国台湾らしさが際立つ。
 台湾は南半球でいえば、サンパウロ州の位置にある。緯度だけでない、雑多な人種・文化が入り混じるその歴史的経緯にも共通点があるとみてもいい。
 翌日、パン屋を訪ね、試したいずれの品も美味であった旨を報告にいくと、こんな話が返ってきた。
 「台湾の料理文化はいろんな要素をごった煮した産物。今日影響はほとんどみられないにしてもその昔、オランダやらスペインやらが要塞を築いた歴史があった。さらに東南アジア経由の原住民がいて、客家がいる。日本が五十年統治したこともあったね……。戦後は大陸各地から数多くの中国人が入ってきた」
 さらに、台湾がしばしフォルモーザ(麗しの国)とポルトガル語で呼ばれることはよく知られている。その美しさに魅了された南蛮船員による命名である。
 台湾料理を食べること。それは単に美食の楽しみである以上に大航海時代から現代まで、さまざまな貌をのぞかせる歴史との邂逅でもある。サンパウロで食べればなおのこと、そんな思いに当たる。
 ※「台湾黒たまご」。鶏卵を醤油で煮込み、冷す作業を繰り返し出来る。鶏卵は小さく縮む。「鉄」と称されることから分かるよう、歯ごたえは十分。かめばかむほど味わい深い。