ホーム | アーカイブ | 食の話題=移民社会のサンパウロ=ピザは「寛容」の味

食の話題=移民社会のサンパウロ=ピザは「寛容」の味

グルメクラブ

3月19日(金)

 外で何か食べたいな。きょうはしかしあいにく日曜日、すでに街灯のともる時間である。さて何を食べようか……。
 ひとはピザという料理のありがたみを、まさにかくの如き状況に痛感する。
 なぜかピザは夕食の献立となることが多い。サンパウロ市民はとりわけ日曜日の夜になると、せっせと食べに出かけている。
 その消費量は一日平均にしておよそ百万枚。市内で営業するピザ屋は宅配専門店も含め、四千五百軒を数えるそうだ。
 ブラス区ジャイロ・ゴイス通り、クーポラの美しいボン・ジェズス教会の裏手にたつ「カステロンエス」は現存するサンパウロ市最古のピザ屋である。創業は一九二四年。暖簾を守りつづけて今年でちょうど八十年になる。
 仮に新規開業したレストランが百軒あったとする。すると二年後には半減。十年経つと四、五軒しか残らないーーというのがサンパウロ市の現実である。いまや〃十年一昔〃とすれば昔を八つも重ねた昔からの「継続」は快挙といっていい足りないほどである。
 かつてはパレストラ・イタリア(後のパルメイラス)の選手らがここで勝利の祝杯をあげた。ピザ好きのカルドーゾ前大統領が一九九四年の選挙の年、当選パーティーの会場に選んだ。すなわちこれをもって傘寿の矜持としている。
 平日の晩、開店まであと五分前という時刻に訪ねたことがある。店員はしかし薄暗い店内でテーブルに顔を沈め寝ていた。天井、壁を埋め尽くす酒瓶やオリーブオイルの容器。その内装は明朗なイタリア的大衆趣味というよりいささか不気味に映った。
 楽屋裏で人知れずため息つく熟年スターの素顔とでもいうか。
 思えば、ブラス区界隈の坂道を転がるような零落ははなはだしい限りである。満つれば欠くる、イタリア人街として栄えた面影はもはや薄い。
 それでもサンパウロのピザ屋の間で「ブラス」や「カステロンエス」といえばもっぱら崇拝の対象である。ひとの口の端によくのぼるピザ屋にいけば、それらの二つの名を冠したピザをみつけるのはたやすい。
 「ブラス」という屋号の店さえある。そこは「サンパウロ随一のピザ」(ヴェジャ誌、グーラ誌)の誉れに掛け値なしの味を誇るだけでなく、正統派サンパウロ風ピザを自称する。
 例えばその「ブラス」はナタウリとモツァレラチーズをパルメジャンチーズの粉でグラタン風にしたピザだ。「カステロンエス」はカラブレーザがたっぷり撒かれたそれと決まっている。「パウリスターナ」は大胆にもぶつ切りされたトマトが主役。イタリアでは珍しいカツリピチーズをふんだんに凝らした一品もそろう。つまりがすべて「サンパウロ風」である、と。
 そもそもイタリア生まれのピザとはなにか。
 ピザの語源はだが不明である。はじめは素のパンのうえにチーズや肉・魚介類を乗せ「焼かずに」食べていた。一五二二年にトマトが伝来しトマトが具に加わった。有名な「マルゲリータ」の誕生は一八八九年。バジルの緑、トマトの赤、モツァレラチーズの白というイタリア国旗カラーで構成されたピザがときのマルゲリータ王妃に献上される。ナポリの郷土食に過ぎなかったピザが全土に普及するのはこれ以降のこと。そして十九世紀末、イタリア移民がアメリカなどにもたらし今日の世界的人気に繋がっている。
 ブラジルにも同時期移民によって持ち込まれたわけだが、当初つくられていたピザはやはり「マルゲリータ」のような質素なピザが大半だったと考えられる。
 しかし彼ら移民が開いたピザ屋の大半は姿を消している。旧イタリア人街でいま老舗と呼べそうなところは、モッカ区「サン・ペドロ」(創業一九六六年)、ビッシーガ区「スペランザ」(同一九五八年)くらいなものだろう。
 さりとてサンパウロのピザはまだ発展途上の感がある。というのも日々新たなメニューが誕生していたりするからだ。サンパウロは多民族社会である。ピザ生地のうえで各国特有の食材がフュージョン(融合)していくのは自然の成りゆきのよう思われる。
 などと考えればピザとは実に無国籍で寛容な料理なのだ。民族や価値観の多様化が進み方々で文化摩擦が生じている昨今、「寛容」が緊切な政治問題とされているなかで、移民社会サンパウロのピザには「寛容」という名の味がじわりにじみでている。