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サンパウロ お国自慢料理=看板のない料理屋=アルメニア、ひっそりと

グルメクラブ

4月2日(金)

 地下鉄南北線が九八年にツクルビーへと伸びるまで、サンパウロ市の北の「終着駅」はサンターナだった。
 しかし厳密にいえばツクルビーは北東の方角に向かっているので、真北にオルト・フロレスタ、カンタレラ山脈を望むサンターナが北の「街外れ」であることには変わりない。
 教会側の出口、つまり東口を出ると、ヴォルンタリオ・ダ・パトリアというたいそうな名のついた通りがある。洋服、電化製品を売る店が集中し、上野の「アメ横」を思わせる人出でにぎわいをみせている。
 住んでいる人には失礼ないい方になるが、どことなく垢抜けないその空気はやはり日本の「北の玄関口」上野とよく似るものがあるといっていい。
 通りを北進しアルフレッド・プジョ通りにぶつかったら左に折れ十分ほど歩く。左手遠くにかすむサンパウロ市旧市街のビル群がこの土地がかなりの高台に位置することを実感させてくれる。
 途中、「生長の家」の集会場があり、新教のそれがある。ピザ屋を二軒ほど過ぎたかと思えば、レストラン「力」なる店が現れてカレーライス、焼きそばなどと書かれた品書きが表玄関に掛かっている。
 じきにジョゼ・マルガリード通りに出る。今度は右に曲がる。細く急な坂道が二百メートルばかり続いた向こうは行き止まりになっているようだ。
 小さな家屋ばかりが軒を連ねている。近くで犬がくぐもった声で鳴いた。つづいて鳴いた。「この家貸します」の広告が心なしか目立つ。犬が暇つぶしといった感じの声でまた鳴いた。おばさん二人がそれぞれの家の窓から顔を出し、なにやら浮かない顔つきで世間話している……。
 と六十行近く費やしたところで、ジョゼ・マルガリード通り二一六番地に着く。車庫のようでいて民家のような建物がある。灰色のシャッターが無愛想に半分開いている。何と知っていなければ、決してくぐることのない門であろう。だが、所在地はしっかり確認してきてある。
 ここが、看板のないことで知られる、アルメニア料理の名店だ。
   ――――――   
 サンパウロ市のアルメニア人たちはかつて、ボン・レチーロ区の〃ポンテ・ペケーナ〃と呼ばれた土地に集住していた。タマンヅアテイの川べりである。皮なめしの技術に長け、靴工場で働く者が多かった。
 古来、豊かな国だ。その歴史は紀元前九世紀と古い。早くから農業が発達し紀元前二世紀ごろに完成されたといわれる郷土料理には穀類、豆類、野菜、スパイスがふんだんに使われ調理の技法にも富む。
 一八九五年にはすでにサンパウロ市への移住者がみられるが、堰を切ったように増え出すのは一九一五年以降のこと。ときの支配者オスマン・トルコ帝国による「ジョノサイド」(大量虐殺)を逃れてきたのだ。
 世界に離散したアルメニア人の間で「一九一五・四・二四」は忘れることのできない日付である。
 累計で百五十万人とも伝えられる「ジェノサイド」、その悪夢の始まりを記す「刻印」として……。
   ――――――   
 あまりにそっけないたたずまいをみせる、この店の創業者は、ガラベッジといった。やはり多くの同胞とともに二〇年代の初めまでにサンパウロ市へやって来た一人だ。店は一九五一年から営業を始めている。
 国を離れるとき、トランクの中に忍ばせてきた一冊の料理本が役立った、と店のパンフレットには書いてあった。
 席の数はわずか三十席ほどしかないのにエスフィーハの種類は十六種もある。アルメニアの乾燥肉バスロルマーや、アンショーヴァを使った品は特に珍しい。
 中近東やアフリカ北部の料理とアルメニアのそれとの共通点は多い。ババガヌシュ(ナスのパテ)、オムス(ヒヨコマメのパテ)、キビ(生肉と香草)、コアリャーダ(ヨーグルトの一種)、ブドウの葉でひき肉や野菜を巻いた料理、タブーリ(小麦、香草のサラダ)、カフタ(肉野菜の串焼き)など。
 ここ「カーザ・ガラベッジ」にも、いわゆる「地中海・中近東」料理の類が多く見受けられる。甘物にしても、乾燥果物の砂糖漬けが多用され蜜がたっぷりかかっていたりする。
 大きな釜の炎がみえる席で味わうエスフィーハが何より試してみる価値があるよう思われた。一枚が五レアル前後と安くはないが、その辺で食べていた代物がいかにまやかしであったか、との念からも逃れることが出来なくなった。
   ――――――   
 その時、同じくらい旨いエスフィーハを出す、お世辞にもきれいとはいえない店がほかにもあったな、と思い出した。記憶に違いなければ屋号は「アルメニア」でなかったか……。
 生地、雑貨問屋が並ぶ旧市街・三月二十五日通りは、市民なら一度は訪ねたことがあろうが、「アルメニア」に続く小路に足を踏み入れた覚えのある人は少なかろう。
 小路は二人がようやくすれ違えるくらいの幅しかなく、抜けると四面を雑居ビルに囲まれた猫の額ほどの広場に出る。その一角を占めるのが「アルメニア」である。営業は昼間のみ、だが日中でも店内は暗い。そしていつ行っても暑苦しい。その理由が店には不釣合いに映る立派な釜のせい、といつしか気づいた。
 エスフィーハは一枚五十センターヴォくらいなものだった。それでも「カーザ・ガラベッジ」の五レアルに比類すべき食後感だったと印象に残る。
 しかしアルメニア料理の店はなぜ、「街外れ」「小路の奥」といった場所で、息をひそめるように営業しているのだろう。
   ――――――   
 国家として世界で初めてキリスト教を受容した国である(三〇一年)。国土のほとんどは高原地帯。霊峰アララト山(五一六五メートル)は「ノアの箱舟」が漂着した地で、アルメニア人の心の故郷とされる。
 カンタレイラ山脈の近く、高台のサンターナを選んだのはそのせいか。あるいは人知れずひっそりあるのは、「受難」の民族としての性かもしれない……。
 いずれにしてもこじづけに過ぎないか。確かなことといえば、地下鉄南北線でかつてポンテ・ペケーナといった駅がアルメニアと改称され、「隠れる」どころかむしろ、サンパウロ市に確かな存在感を放っている事実ひとつである。