グルメクラブ
4月16日(金)
「食えない」政治家ばかりがいたわけではない、としみじみ思った。オズワルド・アラーニャ(一八九四―一九六〇)のことを知ったときだ。
一九四七年の国連総会でイスラエル建国に尽力。世界史に名を刻んでいるばかりか、国内的には、「三〇年革命の魂」とまでいわれ、かのヴァルガスを長年支えた、その人である。
中東および国内政治の混乱が収まらない今日、待望されるのはまさにアラーニャのごとく、立てた志を世に押し通す行動力と国際感覚を併せ持った、目利きの政治家ではあるまいか。
世間では料理の名前としてもよく知られる。「フィレ・ア・オズワルド・アラーニャ」といえば、牛フィレ肉の上には黄金色の揚げニンニク、ご飯、ファロファ、ポルトガル風ポテトフライの一皿だ。
リオ市ラパ区トラヴェッサ・ド・モスケイラに一九二六年から続くレストラン「コスモポリタ」が、オズワルドの功績をたたえ考案したのが始まり。いま書店に並ぶたいていの料理本にそのレシピが掲載されている。
オズワルドの生まれは、リオ・グランデ・ド・スル州。焼肉の本場である田舎を出、リオの軍事および法律学校で学び、そしてパリのソルボンヌ大学で国際法を修めた。コスモポリタを屋号とするレストランが、かつて編み出したその肉料理に、ガウーショで国際人のアラーニャの名を冠したのは、至極妥当であった。パリ・モンパルナスとよく似た空気が充満していた、ラパ区に好んで集ったボヘミアンたちもこれには異論を唱えなかった。
ただ、不思議に思うのは、人名をあてて何々風フィレということあれば、例えば、ヴァルガス風などが存在していてもよいが(あるかもしれないが)、アラーニャ風のほかに、一世を風靡した(する)ものがないということだ。もっとも「笑い話」の世界になら、次のような品がある。
――病院帰りだったのか、誤って「フィレ・ア・オズワルド・クルス」を注文した男がいた。運ばれてきた料理をみれば、肉の上にはオムレツが。「ニンニクじゃないのはどうしてだ」と、男は文句をいった。
ギャルソンは弁明した。「ですが、お客様は確かにオズワルド・クルス風といわれました。わたしは同じオズワルドでも、アラーニャ風しか知りませんので、頭をひねりました。そこで思いついたのです。オズワルド・クルスは黄熱病を研究した医師ですから、何か黄色いものを、と」
ニンニクが欲しかった男は失望し、次に安堵した。食べてみればこれが決して悪くない。しかし男は機転を利かせたギャルソンの対応を誉めることもなく黙りこくり食べつづけた……。
とする話である。肉の上に目玉焼きで「ビッフェ・ア・カヴァーロ」と呼ばれる料理があるのだから、このクルス風が現実あってもおかしくはないのだが、あくまで「想像の産物」に過ぎない。
実際、人名で呼ばれる料理など、どこの国でもありそうでないのが常だろう。ブラジル料理でもそれはいえる。だが、同じくリオの名物、海産物スープに「レオン・ヴェローゾ」という「人名料理」(?)がある。
ムール貝、エビ、イカ、伊勢イビ、大中小さまざまな白身魚を素材に、オリーブオイル、トマト、タマネギ、ニンニク、マンジェリカォンなどで調味する、それは南仏マルセイユの「ブイヤベース」がヒントになってつくられている。
オウヴィドール街のレストラン「カバッサ・グランデ」(同街の『リオ・ミーニョ』という説もある)にそのレシピを伝えた仏ブラジル大使レオン・ヴェローゾの名が、そのままこのリオ風海産物スープの通名となっていまに至っている。
外交官エリートのさらにエリートが赴任するのがお決まりとなっているフランス。こちらも「食える」実績を残した御仁だった。