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復員記=サンパウロ 建林成幸

 復員とは、戦争が終わり兵士が故国に引き揚げることをいう。 今年、日本は戦後70年を迎えた。70年も経てば、人はみな高齢に達し、生き残った人は僅かで、戦争を知らない世代の時代となった。 私は大正15年(昭和元年)生まれで、終戦を数え歳20才で、シナ大陸華北青島の海軍航空隊で、航空兵として迎えた。 当時の青島(チンタオ)は、元ドイ ...

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想い出を暖めて「心の旅」=クリチーバ 田口さくお

 私は老童卓球部の仲間である友人から、今NHKで『心の旅』という番組をやっていて、なかなか面白いからと教えられました。私は特別な番組がない限りあまりNHKは見ないので、知らなかったのです。  ある時、彼から「今、岩手県の『心の旅』を放映しているから」と知らせる電話があり、私はさっそくテレビをつけました。俳優の火野正平氏が案内役の ...

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鱈のグラタン (Bacalhau gratinado)

 以前も鱈のコロッケをご紹介させていただきましたが、今回は私が1994年にNHKのお料理番組でご紹介しました鱈のグラタンを再びご紹介します。
 鱈の事をポルトガルではBacalhauと言いますが、語源はラテン語のBaccalaureu からきています。

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ニッケイ俳壇 (855)=富重久子 選

サンパウロ  平間 浩二

夢追ひしなべて移民の花珈琲
【今から百何年前に移民した人々は、戦後移民の我々とはちがって、珈琲栽培と言うしっかりとした目標があって、短期間の移民として来られたと聞いている。
 「なべて移民の」とこの句にあるように、珈琲を植えその実を収穫して売買してという、全ての人の胸に大きな夢があったのである。「花珈琲」という芳しい季語の真に良く坐った巻頭俳句であった】

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被爆70周年=サン・ローレンソ・ダ・セーラ 丹生登

 私の郷里は長崎の爆心地から40キロメートル程の距離です。直接被災はしなかったのですが、私達の町に2~3日目と被爆した人達が何十人何百人と汽車から降りてきていました。医院まで100メートル程の道を歩く途中、主に火傷で全身水ぶくれの負傷者達が多く、倒れ動けなくなり息絶えて行ったあの情況が脳裏の何処かにあって、今でも思い出すのです。 ...

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ニッケイ歌壇 (496)=上妻博彦 選

サント・アンドレー 宮城あきら

沖縄のゆくえ如何にか明日暗き辺野古の海に招かざる基地
全国土の六パーセントに過ぎさりしわが故郷に基地がひしめく
国防はその地に住めるはらからの賛意なければ成り立ち難くも

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ニッケイ俳壇 (854)=星野瞳 選

アリアンサ 新津 稚鴎

枯野中庭をきれいに掃いて住む
一つ歩き皆歩き出す枯野牛
教会の扉につづくなり枯野径
遠野火をびっしり闇の閉ぢこめし
火の色の闇に滲まぬ遠き野火

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一世一代の河原乞食=サンパウロ 加藤俊二

自転車

 江戸時代、京の市中を流れる鴨川の四条河原で歌舞伎が上演され、観客で賑った。この興行現場を見くだして役者を「河原乞食」と揶揄した。次に記す河原乞食は、天下の大道で一世一代の迫真の演技を披露。篤とご堪能下されまし。  神戸移住斡旋所に入所した昭和35年(1960)6月、元町の自転車店で銘柄「能率」の中古車を買い移民船に積んで来た。 ...

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大切なもの=小野寺郁子

 バスに乗ると、前の方に赤ちゃんを抱いた人の隣りに一つ空席があったので、そこに座った。 若い母親に抱かれた赤ちゃんは、お誕生少し前ぐらいに見える女の子で、可愛い目をクリクリさせながら、あちら、こちらを眺めていたが、しばらくすると飽きたのかぐずり始めた。 母親は色々とあやしていたが、なかなかぐずり止まないので困って、手提の中を探っ ...

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日系コロニアの希望の星=サンパウロ 栗木大樹

 先日、県連の日本祭りに行って来ました。その人の多さ、車の多さにびっくりしました。また、祭りの規模の大きいこと。議員からの支援もなくなったと聞いており、大変だろうなと思いましたが、この不景気の中スポンサーも増え、皆さんの心意気を感じました。 中1日は雨に祟られたようでしたが、終日大賑わいだったようで、15万人も来場したとあり、関 ...

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