1945年7月も終わりに近い朝、私は母と裏庭にコンロを出して非常食用の大豆か米を炒っていた。その時、裏の木戸が開いて誰かが入って来た。振り返ると兄だった。兄は中学4年の時、海軍甲種予科練習生として入隊。筆まめな人で、各地に転勤になるたび葉書をくれた。 つい1週間前、中国の青島航空隊から元気な便りが届いたばかりの兄が突然現われ、 ...
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衣服と朝のひと時=イビウーナ 瀬尾正弘
私の起床は毎朝5時である。床から出ると先ず窓を開け、今日の天気はどうか空一面を見て雲の様子など眺める。まだ少し暗いが…。冬場は外温が何度あるか確認して、作業着の上、下着など決めて着服する。天候に異変がなければ毎日ほぼ同じ様な衣服だ。 しかし冬場は毎日の温度差が大きく、ズボン以外は一定ではない。ことに私の住むイビウーナ地方は、冬 ...
続きを読む »死線を越えて―悲劇のカッペン移民=知花真勲=(8)
私は、このお金を上間耕地に残したままの7家族を呼び寄せるための資金にした。本当にありがたい尊い救いのお金であった。 この7家族の仕事口を比嘉真繁さん、石川盛得さんらカンポ・グランデ沖縄県人会の幹部であった方々が、あっちこっちのファゼンダに当たって借地農の仕事を見つけて下さった。比嘉さん、石川さん達の恩愛の情、そのチムグクル、志 ...
続きを読む »死線を越えて―悲劇のカッペン移民=知花真勲=(7)
この耕地は、まだ未整地だったが、土地は大変肥沃だった。若い連中は共同で住家を作り、山羊小屋作りにせいをだした。年寄りたちは荒地を耕し米を植え付けた。稲はたちまち育ち豊作であった。 ところが、収穫直前になって40年ぶりといわれる大雨に襲われてしまった。この土地は盆地のように低い土地だったので、一挙に水害にみまわれ、滝から水が襲い ...
続きを読む »壮絶な人生綴る随筆収録=谷口範之さん作品集第2弾
楽書き倶楽部や日系文学会員の谷口範之さん(90、広島)の作品集『雑草のごとく2』が刊行された。武本文学賞入選作品含む、随筆26本に加え5本の短歌を掲載。 終戦後の壮絶な経験を「私のシベリア抑留記」、渡伯当初のアマゾン入植を「ガマ移住地移住記」(ポ語訳付)で綴る。 その後のピエダーデでの農業生活を描く「バンコ・ド・ブラジル ソロ ...
続きを読む »死線を越えて―悲劇のカッペン移民=知花真勲=(6)
出迎えのトラックが、3名の青年と共にやって来てすぐに積荷を始めた。3日目に積荷を完了し、全員がカッペンを後にした。 カッペン耕地を出て、入ってきたコースを悪戦苦闘しながら走り抜け、新しい耕地に入植した。この新開地もまた、最初から森林の開墾、掘立小屋の新築と、昼夜についで全力を尽くした。例のとおり、主食の米の植え付けが最優先作業 ...
続きを読む »ニッケイ俳壇 (857)=富重久子 選
ボツポランガ 青木 駿浪
念願の和牛を試育草青む
【「和牛」は、日本の在来種と輸入種とを使って改良した牛のことで、昔は労役に使っていたが、現在は食肉用として飼育しているとある。
そんな和牛を、自分の農地で試育してみたいという念願があったのであろう。季語の「草青む」が良い選択であった】
死線を越えて―悲劇のカッペン移民=知花真勲=(5)
他の家族の人々もこれに感染した。カッペンは、最初から医療施設もなく、無論医者は一人もいない。手の施しようも無く、日本から持参してきた少量のマラリア薬とか、熱さましなどを服用させ、その場しのぎの有様であった。 数日がたって、若い18歳の又吉青年が危篤に瀕した。高熱と震えがとまらない。500キロもあるクィアバー市に、オンボロトラッ ...
続きを読む »目良浩一氏の講演を聞いて=サンパウロ 駒形秀雄
『太平洋戦争は米国が仕掛けたものだ』というご自分の説を立証されるため、良くこれだけの資料を、しかも旧敵国の米国で集められたものだと、大いに感心致しました。 更にこれを一般にも知らせようとする先生の熱意また、ニッケイ新聞社のご尽力に大いに敬意を表します。 12月8日の真珠湾攻撃を私達日本人は「良くやった、大成功」と喜 び、今でも ...
続きを読む »日本語教育=カンピーナス 鈴木マリア恵美子
8月26日(水)付のニッケイ新聞「オーリャ!」を興味深く読ませていただきました。「ブラジル人の友人と日本語・葡語の交換授業…互いの母語を教えあう…」とありましたが、「母語は話せても教えられない」というのが、かなしい現実ではないのでしょうか。 日本人でありながら、ブラジル人でありながら、どちらも母語の説明ができないのはフツーなん ...
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