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文芸

『楽書倶楽部』 29号

  随筆集『楽書倶楽部』第29号が発表された。  「奴隷と移民 ②」(梅崎嘉明)「アマゾンの植物誌26」(醍醐麻沙夫)「私の生きる指針とする言葉」(有澤真理子)「戦後70年過ぎて」(荒木昭次郎)「海を渡った花嫁達は」(滝友梨香)など36作品の他、健康10訓、漢字クイズ、歴史上の人物の名言などを掲載。 問い合わせは日毎叢書企画出版 ...

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宿世(すくせ)の縁=松井太郎=(25)

 私は孫に玩具を買ってやりました。そこをでてもまだ早かったので、セアザ(中央市場)を見学しました。家では一日はすぐたつのに、このような行楽にはいろいろなところがみられて、一日はながいものです、村の会館についたのは午後の七時でした。五月0日、晴れ、今日もアルファツセきりです。わたしも五時には畑にいます。荷をだしてからは昼食をし、そ ...

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鹿児島が記念誌発刊=百周年から2年越しに

ブラジル鹿児島県人会創立百周年記念誌

 鹿児島県人会(松村滋樹会長)がこのほど、1913年から始まる同会の歴史をまとめた創立百周年記念誌を刊行した。日ポ両語で全カラー216頁。 前田十郎左衛門による県人のブラジル初上陸(1869年)から、会の創立と歩みが節目の式典ごとに紹介されている。2013年10月の百周年関連行事は写真グラビアを掲載。40頁に及ぶ寄稿は、歴代会長 ...

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宿世(すくせ)の縁=松井太郎=(24)

 彼女はそれでもこっそりと日記はつけているようであった。太一に見られるのをとても嫌っていたので、サンパウロ市に転居のさい、すべて焼いたか捨てたかにちがいなかったのに、その一冊が残っていた。太一は興味をもってページをめくっていった。字はたしかに下手であったが、そこにはほかの誰でもでない亡妻の仕種のようなものがあった。 日記のなかに ...

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ニッケイ歌壇 (495)=上妻博彦 選

ブラジルのサンパウロで毎年開催される日本人県人会連合会主催の日本祭りでは、各県人会が郷土色を販売し、日系、非日系人を問わず多くの人が行列を作って買い求める。

      サンパウロ      水野 昌之昼寝時に限って電話で起こされる「間違い、ご免」という人からだ誰からか電話きそうな気配する休日つづくひとりの真昼裾分けのケーキのお礼の電話受く声の高さで喜びを知る新しき恋の話も就職も孫ともなればいつも電話なりじっくりと女を口説く要領で商談まとめる友の長電話  「評」こうした作品に接すると ...

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ニッケイ俳壇 (852)=星野瞳 選

『ツクピー』とはマンジョッカ(キャッサバ)の根の絞り汁で、舌先や唇に痺れ感を感じさせる液のこと。この液で鶏肉や鴨を煮込むのがブラジルの先住民インディオの料理。

   アリアンサ         新津 稚鴎冬日負い軍平胸像顔暗し首ふって歩く他なき時雨牛犬の嗅ぐ物より翔ちし冬の蝶どびろくや転耕とどむ術もなく土深く想思樹の実を植えにけり   セーラドスクリスタイス   桶口玄海児妻掘りし里芋どれも肥えて居し移民妻にある大望や芋の秋移民妻長生き希望今年竹ここからは町の入り口イペ万朶キリストの泪 ...

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宿世(すくせ)の縁=松井太郎=(23)

 太一はそんな連中とはかかわりはなかったが、金まわりの早いチシャ作りをはじめたのであった。丈二が食料品店を買ってサンパウロ市にでるまでに、R村で二十年ちかくの歳月がながれている。その間に千恵の両親は亡くなっている。奥地で発病した太一はーどうせながくはもたない身体だからーと、覚悟をきめ義父に女房と子供を託するつもりで、この地にうつ ...

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平野運平伝記『森の夢』=サンパウロ市文協で無償配布中

 平野運平の生涯を描いた醍醐麻沙夫氏の著書『森の夢 ―平野運平と平野植民地の物語―』(初版1979年、216頁、パウロス美術印刷)が、サンパウロ市文協事務局にて無償配布されている。限定80冊。 同植民地が今年で入植百周年を迎えたことから、農業技師の続木善夫さんが「歴史を残さなくてはならない」と自身が所持していた同著の配布を決めた ...

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『ブラジル日系文学』 50号

 『ブラジル日系文学』第50号が刊行された。 50号記念短編特集「十字架のある風景」には「月光のうさぎ」(山野優花)、「消えたお見合い」(鎌谷あきら)等、10本を掲載。「わがふるさとの歌②」(オダ・テルコ)、「文学散歩⑨ 藤村の中山道を歩く」(柴門明子)、「にほんじん(終)」(原作・中里オスカル、翻訳・中田みちよ/古川恵子)ほか ...

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戦後派と呼ばれて60年=イビウーナ 瀬尾正弘

 早いもので、コチア青年移民はブラジルに渡って今年で還暦を迎えた。戦後移民として1955年より12年間にわたって、日本全国より2500人が移住した。18~25才までの独身移民で、戦後育った若人なので、ブラジルの受入れ側ではアプレの傾向があると危惧されていた。予想どおり、当初は様々な話題を引き起こした。 コチア移民は、コチア産業組 ...

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