死に化粧が巧みだったのか、それとも体力をあまり消耗しないうちに死んだので、見たところ十歳もわかくみえ、老婦人のもつ品のよい美しささえあらわしていた。 けれども太一は一目みたとき、これはもう千恵ではないと思った。蝋のような質料で精巧に作られた人形のようなものに感じた。つまり命のないもの死者ということであった。死とは生者の目の前に ...
続きを読む »文芸
森脇先生を偲ぶ=鈴木正威
先生と初めて会ったのは、1965年の頃である。当時、日本語普及会に在籍していた私は、日本語教育実態調査の手始めてとして、市内の日本語学校を歴訪していた。そのひとつに先生が教鞭をとるカショエリンニャ校があり、そこを訪問して思わず目を剥いたのである。 丁度作品発表会だったのか、校内には生徒の手作りの図工の作品が並べてあったが、それ ...
続きを読む »森脇礼之先生の思い出=ドウラードス・モデル校校長 城田志津子
森脇礼之先生のご逝去、心より哀悼の意を表します。 日系社会の日本語教育を支え、未来に日本語を託し夢を紡いでいらした大先輩の諸先生方の訃報に接する度、1978年にサンパウロのブラジル日本文化協会(文協)で行われた全伯日本語教師合同研修会に参加し、そこで出会った沢山の先輩諸先生のことを思い出します。 その先生方から、日本語教育を公 ...
続きを読む »これで解決・沖縄基地問題=かんばらひろし
沖縄が基地移転の問題で揉めています。 政府側は「ヘノコ移設は慎重検討の結果決まったものだ。これは沖縄県(前知事)も承認している。計画通り推進する」としており、一方、オナガ現知事は「沖縄県内建設絶対反対。これは選挙で示された県民の意思だ。建設を阻止する」としております。 政府としては日本国の防衛という面からも、米国との国際協約 ...
続きを読む »宿世(すくせ)の縁=松井太郎=(6)
千恵は家に戻ってはこず、病院より墓地に運ばれ、遺体安置場で弔問客に会い、永の訣別をすることになった。 太一はどういうものか、父母をはじめ弟妹たちとも縁はうすい。長男なのに家を出たゆえだろう。おなじサンパウロ市内にいても便りもなく、時に妨ねてきても四、五年の間はおいている。まして他州にいる者とは嘘のようだが二十年も会っていない。 ...
続きを読む »宿世(すくせ)の縁=松井太郎=(5)
太一はーえらいことになったーという衝撃もあったが、なるべく考えないようにしていたある予想が、ぱっくりと眼のまえではじけた恐怖につつまれた。事態は急変しているので、太一は廊下をはしって息子夫婦の部屋の戸をたたいた。すぐに嫁の姉S宅に知らし、丈二は友人Eにすぐきてくれるように頼んだ。Sの娘で看護婦を勤めているI市の救急病院にゆくこ ...
続きを読む »ガウショ物語=(44)=ファラッポスの決闘=《1》=祖国のために生き、死ぬ
わしがベント・ゴンサルヴェス将軍の伝令だったことは何度も話したな――もちろん、証拠だってかあるさ。 これから話すことは一八四二年の終わりごろ、アレグレッテで始まって、それから二年の後、国境のサンタナに近いサランジの辺りまで広がって、二月二七日に終った戦の時に起こったことだ。 ことの起こりはこんな具合だった。まあ、お前さんによく ...
続きを読む »宿世(すくせ)の縁=松井太郎=(4)
太二はすぐにそれは血便と直感した。それもかなりの量のものが、時間をへて排泄されたものと判断し、さっそく店に電話して息子をよんだ。 入院した千恵は点滴の注入はうけていたが、近日にでも手術をうけられる様子はないようであった。丈二が係の医者にきくと、ーいま検査しているところだーと答えただけで、詳しくは説明してくれなかったという。太一 ...
続きを読む »ニッケイ俳壇(847)=富重久子 選
サンパウロ 広田 ユキ 相似たる身の上話移住祭【我々日系人は六月十八日、サントス港に着いた日を記念して移住祭を催し、其の日は公式に「移民の日」とされている。 この句にあるように戦前戦後を問わず、共に移住後の暮らしは肉体的、精神的にも共にさまざまな苦労があったもので、「相似たる身の上話」と静かに聞き止めている ...
続きを読む »宿世(すくせ)の縁=松井太郎=(3)
彼の知人のなかにも千恵とおなじ病気のひとがいて、もう十年からインシュリーナを打ちつづけているという。毎日欠かせない注射も、無為の彼にはよい日課になった。というよりは太一の心にあるはずみがついているのを自覚して、近ごろとみに神経過敏になっている妻に見破られないかと、ギョッーとなるときがある。 思い返してみると、千恵にーあんたはわ ...
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