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文芸

安慶名栄子著『篤成』(26)

 焦って起き上がらせようとした途端、彼女の口から太い声が出て、「私はプレット・ヴェーリョだ。20年以上もヂット・ミネイロと一緒に働いたのだ。僕の唯一の心配は、この世でたった一人だったから、死んだときに誰が葬式をしてくれるのかだった。ヂット・ミネイロはいつも『お前が死んだら俺が葬式ぐらいしてあげるよ』と約束してくれたんだ。すると俺 ...

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安慶名栄子著『篤成』(25)

 若者の間ではあのハボ・デ・ガーロが流行っていたにもかかわらず、彼らはいつもコーヒーだけを飲み、あの面白い、陽気なプログラムの演出に向かうのでした。あの頃から実に風変わりな方達だったのを覚えています。 第13章  霊魂の声  仕事に専念していると時が過ぎるのも感じないのが事実です。二十歳になってすぐに私は結婚しました。特に女性に ...

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安慶名栄子著『篤成』(24)

 さて、バナナ栽培に携わっていた農夫たちの人生は、左程負担ばかりの人生でもありませんでした。多くの日本人の家族が地域で一緒に暮らしていましたが、共に働き、皆助け合いの精神で頑張っていました。特に沖縄県人は、現在までそうであるように、集まって歌い踊るのが大好きでした。子供が生まれると、命名記念として皆で集まり、大きな催しが開かれる ...

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安慶名栄子著『篤成』(23)

 みつ子は回復するや否や、すぐにジュキアー市の学校に入学しました。友達が一人いましたので、2人して約10キロの道を毎日歩いて学校へ行くようになりました。  その頃すでに13歳になっていた私は、隣に住んでいる人に裁縫の基礎の型紙や布の切り方、ワンピースの縫い方などを教えて頂きました。そこから益々裁縫に興味が増し、お裁縫の学校に行き ...

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安慶名栄子著『篤成』(22)

 当時、恒成は「へいや」という名の通った新聞社に入社する事が出来ました。そこで仕事をしたおかげで日本語の読み書きが一層磨かれ、流暢な日本語を使えるようになりました。そして夜間学校では自動車工学を学んでいました。  父は兄に農民になってほしくなかったのでした。頭がよく、漢字まで読み書きが出来た兄には農家よりましな仕事に就く条件が整 ...

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安慶名栄子著『篤成』(21)

 父は、そんな理不尽な差別的な行為に納得がいかず、他の日本人たちと熾烈な戦いを繰り広げてしまいました。父と同じような気持ちだった他の2人の日本人の地主が賛同し、最終的にはブラジル人家族もその待避線を使えるようになりました。けれども、それには条件があったのです。  その3家族の子供たちはもはや地域の日本語学校へは通ってはいけないと ...

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安慶名栄子著『篤成』(20)

 私たちの人生は新しいお家、新しい日課の始まりで一変しました。  午前中にはブラジルの学校へ行き、授業が終わると皆で駅まで走り、汽車が通るのを見るのが好きでした。  いつも同じ時間に、とてもハンサムな盲目の青年がブロンドヘアの2人のきれいな女性と一緒に駅の前を通りかかるのでした。1人は彼の恋人だといい、いずれ結婚するのだというこ ...

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安慶名栄子著『篤成』(19)

 その夜、父は一人で泣き、張り詰めていた神経をなだめるように、そして妻への恋しさで初めてお酒を飲んだのでした。  翌朝、でっかい毒蛇(ジャララクスー)が一匹部屋の前でピンと張っていました。おそらくネズミでも追っかけて家に入り、壁時計の後ろに入り込み、そこから出ようとしてあの前夜の変な音を立てていたのでしょう。  さて当時、兄はと ...

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安慶名栄子著『篤成』(18)

 私たちへの好意と敬意、そして繊細なお心遣いを伝えたく、突如として訪れて下さったのです。私たちにとってこの上ない愛情深い、真の友情の証でした。私たちもどんなにガスパールさんに感謝していたことか、あのシーンは生涯忘れられないでしょう。  私たちはあんなに気高い好意にはどうお返ししたらいいのかと、ただ心の底から深く、感謝の気持ちを表 ...

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安慶名栄子著『篤成』(17)

 大きくなったら必ず父を幸せにしようと、その時に私の夢が生まれました。  父のおかげで私たちは健全で、遊ぶのに一日では足りないくらいでした。縄跳びは、私たち3人には最適でした。  二人が縄を振り、一人が飛ぶ。その一人が間違うと交換したりして、一日中でも楽しく遊ぶのでした。  でも父は、もはやいつもの父ではなかった。  あの手紙以 ...

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