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文芸

自分史 戦争と移民=高良忠清=(13)

不吉な予感  照屋幸栄君のお母さんは後になって、あの日に限って何か不吉な予感がして息子を皆と一緒に行かせなかったと言ったそうだ。  それを知りながらなぜ皆を止めなかったのだと幸栄君はお母さんを責めたらしいが、お母さんはただ予感であって本当に当たるかどうかは知らなかったと答えたらしい。  戦争からは生き残ってきた少年達も、まだあち ...

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自分史 戦争と移民=高良忠清=(12)

 私の上級生、下級生達も勉強よりも学校づくりに忙しかった。こうしてやっと皆が雨風に濡れず勉強が出来るようになった。    夢  自分の村に帰って間もなく、母がアサ早く起きると同時に、「夕べ、祖父母と叔母と二人の子供達が長田の防空壕で死んだ夢を見た」と言った。  祖父母は自分達はもう年寄りだからこのまま自分の防空壕で死ぬと云ってい ...

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自分史 戦争と移民=高良忠清=(11)

お酒  厳しい物資不足が続いた終戦直後には、住民が命をつなぐほどの食料はアメリカ政府によって支給されたが、他には何も無かった。  島のお酒好きな大人たちは、こんな時チョットでもあればどんな苦労も忘れられるのにと、お酒不足を寂しがった。  そこで大人たちは日本軍が畠のあちこちに残したアルコールやひまし油の入ったドラム缶を見つけ出し ...

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自分史 戦争と移民=高良忠清=(10)

 石川まで母を訪ねるには所々自由に入れない禁止区域があったので、兄は役所で旅行証明書を貰いに行った。  しかし、石川までの証明書は出してくれませんでした。宜野座までなら、ということで、とりあえず宜野座までの証明書を貰って石川を目指して出かけることにした。  照屋幸栄と那覇出身の青年も、石川には自分達の親戚が居るから一緒に行きたい ...

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自分史 戦争と移民=高良忠清=(9)

 「これを着て退院しなさい」と言われた時は皆大笑いとなった。何しろその軍服は、小柄な私が二人はいってもまだ大き過ぎるぐらいだった。兄が「それは俺が着るから、おまえは俺のものを着なさい」と言ったので、結局、私は兄の服を着て退院した。  そこで、君達は未成年だから孤児院を探すようにと言われたが、兄は俺たち孤児院には行きません、自分た ...

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自分史 戦争と移民=高良忠清=(8)

 それで軍医が診察に来て、すぐに注射をしてくれたし、おかゆも用意してくれた。それから次第に破傷風も良くなっていき、口も開けるようになってご飯も食べられるようになりました。  私はそこに入院して以来、便をしたいとも思わなかったし、したことも覚えていなかったが、自由に歩けるようになってからやっと便所に行きたくなった。ほんとうにあの叔 ...

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自分史 戦争と移民=高良忠清=(7)

 母は、叩かれても言うこと聞かずその人達について行こうとする姉を連れ戻そうと追いかけて行き、返ってこなかった。  終戦になってからの話では、沖縄人に変装したアメリカ二世が、我々の来た方を指して、向こうには敵が居るからコッチヘ、コッチヘと道で誘導していたらしく、皆その後を追って行ったとのことだ。  父と私が降ろされたに処には、地下 ...

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自分史 戦争と移民=高良忠清=(6)

 福地(フクヂ)村の入り口に馬小屋があって、そこに入ってみると、そこにも数人の住民や兵隊達が隠れていた。  その仲間に入れてもらい、又数日がたった頃、偶然兄が四、五人の兵隊と一緒に、一袋のお米をここに居合わせた部隊に配給するために現れたのです。  兄が上官に自分の親兄弟ために少しを分けてもらうようにたのんで、手のひら一杯ほどのお ...

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『プラナルト』句文集=ブラジリア俳句会40周年

表紙

 ブラジリア俳句会40周年記念合同句文集『プラナルト』が1月に発行された。富樫羽州さんはあとがきの中で、《俳誌『木陰』に関係のある人たちに呼びかけて、日本大使館に近い、パラノア湖畔に所在する日系クラブの仮事務所で最初の俳句会を催したのが、一九七五年九月十七日のことだった》と書く。  当初は新都の建設予定地プラナルト中央高原からと ...

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自分史 戦争と移民=高良忠清=(5)

 ちょうど村の境目の十字路に差し掛かると、そこには五、六人の住民と三人の兵隊が倒れて呻いていた。だが、明日の自分の命も分からない怯えた避難民達は、それを助けようともせず、見て見 ぬ振りをして通り過ぎて行った。  そこから百メートルぐらい離れた小高い山に登ると海が見渡せた。沖には列を組んで驚くほどの数の敵の軍艦が見えた。はっと気づ ...

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