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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇

わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(76)

 空港へ数回に亘り往復し、領事館に依頼しても埒があかなかったこれら別送品が、州知事の一声ですぐさま解決OK。  80周年記念祭に於ける思わぬハブニングがあったことは生涯忘れることのない思い出である。  その後、それぞれの受賞者を代表して、謝辞がのべられ、宮城宏光副知事の高らかな万歳が三唱され、最後に照屋弘副実行委員長の閉会の辞で ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(75)

 こうした先人達の努力のお陰で県人移民の渡航は正常化され、それ以降の、いわゆる昭和初期移民がサントス=ジュキア沿線、カンポ・グランデ、サンパウロ州奥地、そしてパラナ州へと怒涛のように押し寄せたのである。  さらに戦後においては、沖縄戦の戦災救援運動を展開してきた先輩たちが、移民受け入れを大きな目的にして、1953年3月に全伯沖縄 ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(74)

 同氏は、「十七八節」にはいくつもの解釈があるが、阿弥陀如来四十八願の十七願・十八願に由来して、人生の臨終に当たっての来迎を待ちわびる悟りの歌、と捉えて開拓先亡者追悼に適している、と推奨したのである。  こうして献楽の儀式に想応しい古典音楽を選定して頂いたのであった。  そこで野村流音楽協会ブラジル支部と同古典音楽保存会ブラジル ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(73)

 然もその高校選抜チームの中に糸満市喜屋武出身の慶留間君がいた。  彼は、字米須のウマイキーナングスク生まれのオバーの孫にあたる少年ということで特別親近感を感じ、うるま会館に招き激励会を催し交流を図った。  これが契機となり1989年7月30日にはサンベンナルド・ド・カンポ市から特別に招待され、再度高校選抜チーム17名が来伯した ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(72)

 県をあげて盛大かつ有意義な国民体育大会に特別に招待を受けた海外移住者は、35日ブラジルから188名、アルゼンチン80名、ボリビア20名、ペルー45名、メキシコ5名、北米60名、ハワイ68名にカナダ2名と7カ国から468名が大会場に集い特徴のある招待券を戴き、特別に仕切られた席について開会式を参観したのであった。  翌々日27日 ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(71)

 出発は10月16日、18日那覇着。  翌日、県知事及び県議会議長表敬訪問、その後琉球新報・沖縄タイムス・琉球放送を訪ね、その翌日西武オリオンホテル集合し県の指定する公式日程にはいる。 ロゴマーク [趣旨] 海と太陽につちかわれた沖縄県の文化を象徴し、21世紀にむかって羽ばたく県民の情熱と友情、平和の心をあらわす。 マスコットマ ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(70)

 県人会では佐賀県人会からの案内状があって私は、沖縄県人会を代表して式典に参列、初めて井上武記者と対面することとなった。  そして取材後のひと時を利用してわが家に案内一族に紹介し夕食を共にした。  限られた時間のつき合いであったが、最近の若い二世たちに見られない規律正しい快活感溢れる青年と認めた。  新聞社にとっても取材班の選抜 ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(69)

 達弥と政義君は無事6ヶ月間の青年隊訓練を終了、そして地元で後6ヶ月の一般労務について所期の目的を果たすことが出来た。  それだけに日本語もかなり上達するようになり、精神的にも成長したことが充分伺えた。  「可愛い子に旅させろ」の諺は、まさに的中したものとつくづく感じ入ったものである。  今日まで家計を守るため懸命に働き親の手伝 ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(68)

 そこで手紙をしたためお願いした。しかし、よく考えてみると、東京や本土よりも出生地の沖縄の国立の琉球大学医学部の方が都合がよいと云うことになり、そこを目ざして手続きするようになった。  出生地となれば、親族縁者も多数いて身元引受人にこと欠かないし、時折親族との交流も出来るし、またブラジル側からの要望や連絡等便利で他所に比べて有利 ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(67)

 1975年になって私は、初めて県人会本部理事に推挙され、それ以来1988年に至る13年間、理事・会計監査12年、副会長5年、そして県人会長の職責を務めることになったのである。  その間ボランティア活動に徹し、必要に応じて1日3回も県人会本部を往来したこともあり、ほとんど毎日1度は県人会館に出向き、事務局業務督励や動静の報告受け ...

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